「ひそかに自分が嫌い」。漠然とこんな風に思っている人はいないだろうか。
 「自分が嫌い」といっても、なにも「自殺したい」とか「生まれてこない方がよかった」などと大仰で深刻な話ではない。自己肯定感もそれなりにあるし、日々おしゃべりをする近しい人もいる。やりがいをもって取り組んでいる仕事や活動もあるし、なんなら仲間から一目置かれている。にもかかわらず、どこからともなく「自分なんて……」という小さな声がこころの中で響いている。
 このようなちょっとした自己嫌悪は、大学の授業で学生さんたちが書いてくれる感想によくにじみ出ているし、カウンセリングでクライエントさんの口から何となしに伝わってくる。当初私は「自分が嫌い」なのは思春期・青年期、もしくは特別な事情のある人に特有の悩みだと思っていた。インターネットが発達しすぎて、キラキラした他人の生活が目に入るようになってしまったせいもあるだろう。だが、これはもっと普遍的な現象で、みんなが多かれ少なかれ「ひそかに自分が嫌い」と思っているのではないかと最近は考えている。

深く考えなくていい

 自分が嫌いな状態は、不快で居心地悪いものだ。今の自分に満足し、クヨクヨせずに生きられたらどれだけ楽しいだろう? だからいっそのこと、自分の嫌な部分については考えず、もっと他の部分に目を向ければいい。
 そういう時に有効な声かけはこんなセリフだろうか? 「自分には〇〇な良いところがあるじゃないか」「変に高い理想を掲げてないで、現状にもっと自信を持とう」。あるいは、ポジティブに先のことを見据えて、「小さな成功体験を増やしていこう」「没頭できる趣味に出会って外に関心を向けてみよう」というのも良さそうだ。さらに問題の所在を外に移して、「自己肯定感は内側から湧いて出てくるものではなく、人から与えてもらうものなのだから、自分には責任はない」と割り切ってしまうのも悪くないだろう。
 嫌いな自分について深く考えれば考えるほどますます自分が嫌いになってしまう。挙句の果てには「ひそかに」ではなくなってしまうかもしれない。

あえて、じっくり向き合ってみる

 だけど、「ひそかに自分が嫌い」なことは悪いことばかりではない。そこには「嫌っている自分」と「嫌われている自分」が居るわけだから、必然的に対話が生まれ、無数の問いが立てられる余地がある。
 「いつからこんな風に思うようになったのか?」「何をしている時、誰といる時、自分は幸せなのか?」「自分は人からどんな風に見えているのか?」「 将来どうなりたいのか?」
 カウンセリングにやってくるクライエントさんたちとは膨大な時間をかけてこんな話ばかりしている。そういう対話はえてして苦痛に満ちているし、答えはすぐには見つからない。でも、こうした問いをきっかけにそれまで知らなかった自分に出会い、新しい生き方を考え始める人がたくさんいる。
 そもそも人のこころは、自分で自分のことを考えようとすると「自分が嫌い」という認識を避けられない構造になっている。将来を見据えて自分を振り返れば、当然反省的になり、ネガティブな部分が必ず発見されてしまうからだ。
 だから、みんな大なり小なり「 ひそかに自分が嫌い」なのだ。ほどほどであるならば、自己嫌悪にも希望がある。

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