悩みを聞いてもらわない私
牛歩戦術かと思うほどボンヤリ歩く娘と、呪文「ジブンデ!」を連呼して抵抗する息子を保育園に送ることから私の一日が始まります。彼らを託したら車を走らせて今度は職場。気がつくともうお迎えの時間で、夜は育児と家事で息つく暇もありません。誰かに悩みを聞いてもらう時間をどうやって作ればいいか分からない、まずはそれが悩みだけれど、それを聞いてもらう時間もないのです。
でも実は、過酷な家・保育園・職場往復的生活に突入する前から、悩みを聞いてもらうことが苦手でした。どっさりたまった悩みは風呂敷に包んで肩にずしっと背負っていて、たまに人前でちょっと広げてみるけれど、いざ話し始めるとなんだか申し訳ないような気持ちになって、ささっと全部をしまい込み、ぎゅっと縛っておしまい。私が心理臨床家になりたかった理由の一つは、誰かにしっかりと悩みを聞いてもらうことに憧れがあったからかもしれません。いずれにしろ、近頃ではちょっと話してみようかと思う機会を持つことすら、難しくなっていました。でも、大丈夫。誰かに話す時間はないし、話さなくても何とかやれている、それが私なのだから。
会わなくても大丈夫
コロナウイルスの流行で、私の職場にもテレワークが導入されました。便利な世の中だなあ、と、割とポジティブに取り組んでいたのだけれど、日が経つうちに、何だか気持ちが重い・・・。おまけに、しばらく中身を見てもいなかった風呂敷があふれてしまいそうになって初めて、私は自分の「つらい」に気がついたのでした。
私は学生相談の仕事をしていて、職場では臨床心理士、精神科医、キャリアカウンセラー、計二〇人以上がまじりあうように仕事をしています。私たちはまるで大家族みたいに、学生から絶え間なくよせられる問題を居間(スタッフルーム)にもちより、「先生!留年生の就職相談お願いします」とか、「眠れないようなのでどうかご診察を!」とかの声をかけあいながら一緒に抱える、まさしくチームだったのです。テレワークになっても連絡を取り合い、不便はありつつ、過不足なく情報のやりとりがなされているはずでした。
話さなくても癒される
職場でやりとりしてきたのは仕事のことなのだから、私自身にとってもそれは過不足ないはずなのに、それなら私のつらさを生んだのは何だったのか。それは、月並みなことだけれど、面接続きで思わずもれた「もー疲れた」にすかさず聞こえる「分かるわ~」の返事や「最近仕事しすぎ!もう帰ったほうがいいですよ!」の声掛けが消えてしまったことでした。我々チームメイトは、学生を支援するのみならず、お互いの"なんか調子出ない"を素早く察知してさりげなくいたわりあっていたのです。直接悩みを話し合わなくても、そこにある種の癒しが存在していたことに、私は思い至りました。私のつらさは、発生したときにその場でそのまま、という最もシンプルな形で誰かに受け取られていて、それは、悩みを悩みとして話さ(せ)ない私の「聞いてもらう」だったのかもしれません。
再び職場に人が戻ってくるようになりました。私は相変わらず、いろんなことを風呂敷に詰め込んで背負っています。でも、大丈夫。私は、仕事と一緒に気持ちもやりとりする、あたたかいチームの一員なのだから。