日々カウンセラーとして働いていますと、「ちゃんと仕事をできるようにならないと復職できない」や「ちゃんとしようと頑張りすぎて力尽きた」など、常に「ちゃんとしなきゃ」と焦り、身動きがとれなくなっているクライエントさんによくお会いします。かく言う私も、現在「初めて『心理臨床の広場』から依頼を受けたのだから、ちゃんと書かないと!」と意気込み、締め切り前に冷や汗をかきながらフリーズしております……。
 このように、日々「ちゃんとしなきゃ」という考えに囚われ、完璧を目指し、焦燥感を抱いている人は多いのではないでしょうか。この「”ちゃんとしなきゃ”の呪い」はどこから来るのでしょうか。

「〝ちゃんとしなきゃ〟の呪い」はどこから来るか

 現在の社会では、効率性や生産性など計測可能なものが重視され、ものごとの価値決定に「数字」が大きな力を持っています。会社で社員の能力は売り上げグラフで測られ、アイドルも漫才師も投票数で優劣が決められてしまいます。確かに、「数字」はものごとの判断を早く、分かりやすくしてくれますので忙しい世の中にはぴったりなのです。「1」が同時に「2」になるなどの複雑な事態は起きません。こうした「数字」が価値決定に大きな力を持つ社会で生きていると、私たちも知らず知らずのうちに「数字」に自分の存在価値の拠りどころを見出すようになってしまいます。
 しかし、「数字」で自分の価値を測定しようとすると、とても困った事態が生じます。まず、「数字」には終わりがありませんので、求めようと思えばどこまでも際限なく求めることができます。また、テストの点数が他者からの測定や比較によってその結果の良し悪しが分かるように、「数字」は他者との関係の中でその価値が決定されます。「数字」のこのような特徴が、目標の基準設定をとても難しくしてしまいます。数はどこまででも求められますし、評価者の他者や比較対象の他者はコントロールできません。そのため自分の価値を保障してくれる基準がどこまでも高くなっていきます。しかしどこまでいっても安心できないため、より良い、より完全なものが求められていくのです。
 私たちはこのようにして「ちゃんとしなきゃ」という呪いにかかっていくのではないのでしょうか。それはどこかで必ず息切れを起こしてしまい、より自信を無くす結果となるでしょう。

「ちゃんとしていない」ことの価値

 一方で、自分の納得感や満足感といった主観的な価値基準は、現実的な目標設定がしやすく、到達の手応えも得やすいものです。最終的に自分で自分を認められなければ、こころの底から自分には価値があると自信を持てることはありません。それは分かりにくい結果であり、数字にできない、不完全な、「ちゃんとしていない」ものかもしれません。しかし、私たち人間はどこまでも不完全な存在です。そして実は、そのような不完全さや「ちゃんとしていない」部分が、私たち一人ひとりの素晴らしい個性やユニークさなどを形作っていたりもします。私たちが生きる世界は「数字」のように単純に割り切れるものではありません。あ、字数が来てしまいました。ちゃんと書けた気がしませんが、それもユニークさということで……。

文献

松本卓也(二〇一八)『享楽社会論― 現代ラカン派の展開』人文書院
内海健、神庭重信編(二〇一八)『「うつ」の舞台』弘文堂

広報誌アーカイブ