「偽りの自分」とは

 「偽りの自分」とは、内心では全然思っていないのに周りに合わせて「面白いね」と言ったり、相手が偉いから「尊敬してます」と言ったりするような「ごまかしの自分」、「忖度の自分」のようなものです。この偽りの自分に支配されてしまうと、まるで誰かの操り人形のような人生になってしまい、自分で生きている実感をもてなくなってしまいます。

 とはいえ、ごまかしや忖度の自分は「本当の自分」( ありのままの自分) を社会から守ってくれてもいるので、「偽りの自分」が過度になり過ぎない程度に「卒業」することが重要になりそうです。

『ゆめパのじかん』

 『ゆめパのじかん』(重江良樹監督)というドキュメンタリー映画があります。

 川崎市子ども夢パーク(通称「ゆめパ」)とは、広大な敷地をもつ子どもの遊び場で、お手製のアスレチックや不登校の子どもたちが通うスペースなどに分かれています。

 映画に登場する寡黙な不登校の小学生のミドリはこう言います。「勉強そのものは嫌いじゃない。でも、学校でノートに写すだけの勉強が嫌いだった。」

 このミドリの言葉に、偽りの自分であり続けることへの抵抗を筆者は感じました。小学校という社会で流れている「時間」に合う自分を急ごしらえで作り上げなければならない中で、ミドリは偽りの自分を過度にせざるをえず、疲れてしまったのかもしれません。

 ゆめパは何者にも邪魔されずに自由に遊ぶ「じかん」、とことん悩む「じかん」を保証してくれる場所であり、スタッフたちは子どもたちを見守り続けます。その中でミドリは木工と出会い、木片から鳥の姿を彫り出すバードカービングに没頭します。その姿は過度になり過ぎた偽りの自分の中から本当の自分を掘り出そうとしているようにも見えました。

 この映画が示唆していることは、人が「偽りの自分」を「卒業」するためには、悩める場所と見守る人の中で体験する「じかん」が不可欠であるということでしょう。

「偽りの自分」を失うこと

 なぜ、そのような場所や人が必要なのでしょうか。偽りの自分を卒業することは、自分自身を喪失することでもあるからです。友達がたくさんいる自分、親の自慢の子である自分。大人だって同じです。社交的な自分、組織で評価される自分・・・。

 うまくやっていた自分や役割を失うことは、非常に耐えがたいことです。そして、何かを失った時、人間には「喪の作業」(失ったものを悲しむ心のプロセス)が必要になりますが、その作業は重要な他者と居場所がないと難しいと言われています。

再び「偽りの自分」をつくる

 映画では、「そんなんじゃダメだよ」、「作っていて楽しいだけではない世界があるんだよ」と、ボランティアの木工職人から厳しくも愛情深い言葉が飛んできます。そうして「じかん」の中に厳しく責任が求められる大人の「時間」が入り込み、せめぎ合いが生じる中で、本当の自分を守るための偽りの自分がゆっくりとつくられていきます。

 筆者はこのゆっくりとがミソだと思っています。急激ではなく、ゆったりとつくられる偽りの自分は、過度で人生に虚しさをもたらすものではなく、適度で本当の自分を守ってくれるものになりうるからです。

 子どもも大人も、生活の中の「時間」と「じかん」を振り返りながら、「偽りの自分」と「本当の自分」のバランスを考えてみることは人生を豊かにしてくれることでしょう。

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