ネットスラングの使用に関するリスク

 私が「無敵の人」という言葉を知ったのは安倍元総理が殺害された事件の後でしたが、初めてその言葉を聞いたときには、事件のインパクトもあって、罪に問われることを厭わない傍若無人で無感情な人に対する非難の意を込めた言葉だと理解しました。

 その言葉をWikipedia で調べてみると、「無敵の人(インターネットスラング)」と表示されます。大学の授業では「書籍や論文で調べるように」と指導しますが、インターネットスラング(ネットスラング)を理解しようとする時、世界中の人の手で共同編集され続けているWikipedia ほど心強いものはありません。ネットスラングは、匿名化された人の手で様々な意味が付与され続け、その変化はとても速く進むこともあります。それが私たちの日常に身近で起きている事象を体験される感覚に基づいた形で表現するネットスラングの面白さであり、受け入れられやすさでもあるでしょう。結果的に時世を反映した言葉としての価値を持つことになります。心理学の専門用語が匿名ではなく記名で、学会発表や研究論文など目に見える議論を経て定義されるのとは異なる特徴を持っています。しかし、だからこそ、ネットスラングの使用には本来とは異なる意味で用いられたり、意図せずに特定の誰かを傷つけ、排除する動きにつながったりするというリスクもあります。例えば"メンヘラ"というネットスラングに関する研究ではネット上で"メンヘラ"という言葉が用法を変化・拡大させながら用いられてきたことが指摘されています。当初"メンヘラ"という言葉はメンタルヘルスに問題を抱えた当事者が集うインターネット掲示板でそこに集う自分たちを表現する言葉として用いられていましたが、その後、精神的な問題を抱えている人たちを揶揄する意味合いを含んで用いられるようになりました。

特定の言葉で一括りにするリスク

 またネットスラングではなくとも、ある特定の状況にある人、あるいは特徴を持つ人を指す言葉を使用する場合のリスクにも目を向けておく必要があります。例えば「モンスターペアレント」という言葉があります。学校や教師からすると過剰ともとれるような無理難題を押し付けてくる保護者を表現しようとした言葉ですが、この言葉が広く用いられるようになったことで学校や教師はすべて善であり被害者であり、学校や教師に様々な要求を出す保護者は化け物、怪物であるため、その要求は「すべておかしいもの」と決めつけられる風潮が進んだという批判もあります。このようにある言葉で特定の人たちを一括りに表現しようとするとき、そこに含められてしまった個々の人々の想いや考え、彼らを取り巻く状況に注意が向けられなくなってしまったり、彼らを自分たちとは違う異質な人たちとみなすステレオタイプを生むことになってしまったりするリスクがあるのです。

当事者が置き去りにされるリスク

 少し違った側面からも考えてみましょう。近年、ヤングケアラーとされる子ども、若者に社会的な関心が向けられるようになってきました。ヤングケアラーという言葉が広く使用される前に比べると私たちは彼らの存在を格段に意識するように(せざるを得ないように)なりました。このように、ある言葉が提案されることには、それまで見えにくかった人の存在、無いことにされてきた問題を顕在化するという肯定的な側面もあります。一方、ヤングケアラーと呼ばれることに対して複雑な想いを持っていると話す若者たちもいます。彼らはケアラーの役割を担わなければならないことで様々な機会を失うことは確かに不利益だと感じつつも、自身がヤングケアラーと呼ばれることでケアを必要とする家族が負い目を感じてしまうのは不本意だといいます。彼らはその呼称が「ヤングケアラー=よくないこと」という一面だけに焦点化された理解や価値に基づく価値を含む表現になってしまっているとしたらヤングケアラーと呼ばれることを不本意に感じるというのです。

心理支援に関わる者として

 安倍元総理が殺害された事件の後、10年以上前に初めて「無敵の人」という表現を用いたひろゆき(西村博之)氏は『無敵の人を減らすために出来ることを徒然と。』という動画を彼のYouTube チャンネルで公開しました。その動画の中で彼は、死刑になったり逮捕されたりするのを怖がらないで罪を犯す人を「無敵の人」と表現したと説明しています。そして「無敵の人」は社会から排除された結果であるため、人を排除する考え方自体を変えていく必要があるというメッセージを発して動画を締めくくっています。なるほど。ひろゆき氏は「無敵の人」という言葉にそうした想いやメッセージを込めて使用していたのです。このようにその言葉を用いた人からその言葉を使った文脈、想いなどを聞くことができるとその意を理解しやすくなります。冒頭に述べたように私がその言葉に最初に触れた時に感じた語感とはずいぶん異なっていたようです。しかし彼が「無敵の人」という言葉を初めて紹介した当時のブログを読むと、最初からそうした意識を持って使用していたわけではなく、むしろ彼らの存在を排除するようなニュアンスで書いているようにも感じられ、彼の中でも「無敵の人」が含む意味やニュアンスが変化してきたことがうかがわれます。
 特定の状況、立場にある人々を表現する言葉は、それまで埋もれていたその存在に光を当て問題を顕在化させますが、同時にそれまではなかったはずの境界を生んだり、個人のエピソードを埋没させたりするリスクも含んでいます。社会的排除を経験した人々に対する心理支援では支援者がそうした問題に対してどのような姿勢で向き合っているかが支援の成否を左右する重要な要因となるために、支援者がどのような表現を用いるかなどに対して敏感である必要があるということも指摘されています。「無敵の人」という表現を安易に用いることによって心理支援者が社会的排除に加担する側になってしまい、無敵という言葉で表現されているような感覚を強めてしまうことも起こり得るかもしれません。
 社会的排除を経験してきたような方と関わることの多い心理支援者としては「無敵の人」というような言葉を用いることを、一度立ち止まって慎重に考えてみる姿勢も持っておきたいと思います。

参考文献
寺田拓晃・渡邊誠(2021)「メンヘラ」の歴史と使用に関する一考察 北海道大学大学院教育学研究院臨床心理発達相談室紀要4P1ー16.
小野田正利(2015)『それでも親はモンスターじゃない』学事出版

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