不思議な本です。まさに手に取ったこの本自体が、二匹の蛇がデザインされた表紙であり、その本が物語の中に出てくるのです。物語は、本を読んでいるバスチアンという主人公と、その本の中のファンタジーエンという異世界、その物語を読む読者、という三層構造になっています。ひょっとするとこれは自分の物語なのかも?と引き込まれていく不思議な構成なのです。

はてしない物語 ミヒャエル・エン〔作〕 岩波書店、一九八二年

実写映画化の悲劇

 昔の話になりますが、このはてしない物語が「ネバーエンディングストーリー」として実写映画化されました。本書を愛読していた中学生の私は、期待を胸に映画を見に行って、原作とあまりにも違うことにひどくショックを受けたことを覚えています。実写映画化にがっかりすることを今は「原作厨」と言うそうです。まさに、私はそれでした。映画には、この物語のもっとも大事な要素が欠けていたのです。この本を読んでない人にも、そして映画だけ見ている大人にも、原作をぜひ読んでほしいのです。

「行って帰りし物語」

 主人公は、現実の世界で母の喪失やいじめ、さまざまなコンプレックスを抱えています。ある日、本屋で出会った一冊の本に惹かれて、さぼった学校の屋根裏でそれを読み始めます。そのうちに「あちら側」である世界から呼びよせられ、ついに本の中の物語に入っていきます。「指輪物語」を訳した瀬田(一九八〇)は、このような形式の物語を「行って帰りし物語」と呼びました。「こちら側」である現実界から「あちら側」の空想界に行くことは、現実界の閉塞や危機状態から、空想や夢などの無意識という異界への旅であり、冒険であり、探索なのです。それは成長のチャンスと危険を伴います。

「あちら側」に行ってからが勝負

 映画では、バスチアンは簡単にこちら側に帰ってきて、いじめっこを魔法で懲らしめたりしているのですが、原作では全く異なっています。むしろ「あちら側」に行ってしまってからが勝負なのです。
 バスチアンは、ファンタジーエンで自分の願いを次々と叶え、最後にはその世界の万能の王に君臨します。その一方で、バスチアンは望みを一つ叶えるたび、こちら側の世界の大切な記憶を一つずつ失っていき、こちら側の現実に帰りたいという望みを失っていきます。はたしてバスチアンはこちらの世界に帰ってくることができるのでしょうか!?

帰ることの困難、そして狂気とは?

 この「帰ることの困難」がこの物語の中核なのです。これは「現実」と「空想」の微妙で危険な関係について私たちに示唆を与えます。狂気やナルシシズムがどのような成り立ちであり、その狂気から現実界に帰還することが如何に困難で、大切なのかということを教えてくれます。現在戦争が起こっていますが、万能空想から出てこられなくなってしまうバスチアンはまるで現在の独裁者が陥る病理をあらわしているようです。
 「はてしない物語」の「はてしない」の意味ですが、読んでもらうとその意味がわかります。物語は限りなく紡がれ続け、新たな物語を産んでいくことが実感できるはずです。是非ハードカバーで表紙を眺めながら一読することをお勧めします。

参考文献:瀬田貞二著『幼い子の文学』(中央公論新社、一九八〇)

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