子供が悪いことをした時、大人は「なんでやったの。そんなことをしたら駄目。分かった!」などと叱ります。怒られた方は「うん」とか言って、それで治まればおしまいです。ところがまた同じことを繰り返したとしたら、当然次に大人は、前よりきつく叱ったりします。ここで再び子供が「うん」と言えば、大人は一応安心はします。しかし、大人の安堵の一方で、子供の側に、その時「うん」と言うしかなかった、言いたいことが言えなかったなどの不満があったらどうでしょう。
大人の側のやれやれ、ほっとしたと思った時には、ちょっと注意が必要だ、ということになります。もし次に同じことをしたら、「何度言ったら分かるの、口先ばかりで」という大人からの言葉が待っていて、子供の不満は更に強くなります。
大人は、正直に子供が本当のことを話してくれればいいのに、と言います。しかし、子供が自分の思いを口に出したとして、大人がすんなりそれを聞き入れるでしょうか。大人は、自分が甘い顔を見せれば、子供は調子に乗るのではないかと思います。子供も、大人から、そんなの甘い、社会では通用しない、将来どうするの、と言われるのではないかと思っています。対立を避けるには、口をつぐむか、「うん」と言っておくのが無難です。
周りから勧められ、スポーツや勉強に熱心に取り組み、成果を収め、達成感を味わっている子供たちはいます。一方、頑張っているつもりでも、まだ努力が足りないと言われたり、自分でも満足感が味わえていないと思っている子供もいるでしょう。忙しく日々を過ごしている時は、こなすことに精一杯ですが、心にぽっかり隙間が空くような時もあるでしょう。そういうタイミングで子供が誰と(何と)出会い、刺激を受け、目の前に突然現れた道にエイヤッと飛び込むかどうか、そうした選択の一つに非行があります。その瞬間、八方ふさがりの状態から解放されますが、ずっと楽しい訳ではありません。周りとの軋轢が生じたり、せっかくの安定を捨てたせいで、先の見えない不安を感じたりします。かといって以前の自分には戻りたくないと思い、引くに引けなくなります。
大勢の人が喜んでくれるようなことから、自ら背を向けた結果として非行はあります。今まで自分のことより、周りの反応を気にして自分を抑えてきたのだとしたら、非行は他人より自分を優先させた、今までにない試みになります。自分がこれからどういう人生を送ろうとしているのか、自分らしく生きるとは何か、非行がそれを探す契機になるのであれば、一方的に悪いこととも言えなくなってきます。当然叱りにくくなります。
ここで大人のかかわりについてです。怒っても駄目でした。押しても開かないドアのようなものです。そこで試しにドアのノブを引いてみる、は難しいでしょうか。子供を叱るのでなく、大人もはらはらしつつ、その遅々とした歩みを見ている、という一歩引いた接し方です。子供が羽目を外す危険と隣り合わせで、大人としては賭けになります。黙って見ていることに、どれほどのエネルギーが必要か、やってみると実際きついでしょう。しかし、恐る恐る子供に任せたことで、彼らがシャキッとすることがあります。自分のことを一人前に扱ってくれた、そのプラスの効果です。大人にも、今までの方法以外にやれることがありそうだと、気持ちにゆとりが出てくることこそが重要です。実際にそれができなくて構いません。自分で選んだ道が、まあこれでよかった、と思える時はすぐには来ないかもしれません。その時まで何とか持ちこたえてくれと、願いながらのかかわりです。