山中康裕〔著〕 中公新書、一九七八年

 これは、精神科医であり心理療法家である山中康裕先生が、病院に連れてこられた子どもたち一人一人と心理療法を通して出会い、それぞれの子どもが表現してきた「心」について書かれた本です。病院に連れてこられる理由は、頭痛や腹痛を訴え登校しない子、先生から『学校で暴れ、ルールを守らず、人の嫌がることをする』と問題視されている子、『家の外では一言もしゃべらない』子、『地獄』を恐怖する子、などなど、まちまちです。

 山中先生は、このような、病院に連れてこられる子どもたちのことを『時代を映す鏡』であるとしています。そして、心理療法家として、こうした一人一人の子どもたちの心を映し出す、『もう一つの鏡』でありたいと欲し、子どもたちの心が語り表現していること、子どもたちの心に教わり知り得たことを、社会に、時代に、フィードバックする目的でこの本が書かれたのだと述べられています。
 つまり、子どもたちは、集団や社会の秩序や日常性を揺るがすように感じられるような様相を示して「問題視」され、"周りの子と同じようにしてくれたら"とか"この行動さえ無くなってくれれば"というふうに、「問題」を取り除くことを期待されて、病院に連れてこられることが多いわけですが、山中先生は、その子どもの問題として見られているものは、本人の問題でもありつつも、集団や社会の問題でもあると述べています。本人が生きて「痛み傷つき苦しむ」中には、本人だからこその要素もあるわけですが、本人ならではの何かを排除し、生き生きと生きにくくなってしまうような集団や社会の側の問題を映し出している面があるのではないかというわけです。

 これは、子どもの望み通りにしてあげるのがよいというようなことではありません。子どもの心はそんな弱いものではなく、いかに鋭く強く、しなやかで健やかなものであるかを、本書の子どもたちは教えてくれます。子どもの心が、意識的にしろ無意識的にしろ感じているのは、人の心や関係、人間社会の本質に関わる問いです。そこには、さまざまな次元での「死」の問題も含まれます。

 本書には、心理療法で心の「自由」を保障される中で、それぞれの子どもの心が、いかに生き生きと動き出し、驚くような心の視点や表現を生み出し、心の仕事が展開していくかが映し出されています。山中先生は「私は、彼らをとてもいとおしく、しかも時には何とも形容しがたいある畏敬の念をもって見つめることがあります」と述べておられますが、本書を読むとこの言葉の意味がわかると思います。

 本書が刊行されたのは一九七八年ですが、今なおベストセラーです。子どもの心にまつわる問題や、不登校、発達障害などの概念が広く知られるようになり、理解が深まった反面、子どもの言動を障害や問題として見てしまい、子どもの心の声が見えにくくなってしまう問題も出てきている今、読まれるべき本です。

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