信田さよ子〔著〕 dZERO、二〇二二年

 「それでも家族を続けますか?」
 そう問われた時、躊躇なく「イエス」と答える読者は恵まれているかもしれません。あるいは、質問の意図が分からず、当惑される方もまた幸運であるとも言えます。

 本著は長年、アディクションやDVなどの第一線で尽力された著者による渾身の一冊です。本著には、家族の病理や支配性などに果敢に向き合われた知見が凝縮されています。

 彼女の筆致には迷いがなく、その「思想」は小気味良いほど一貫しておられ、私淑している先生のお一人です。読者の方々も、ひとたびページをめくると、著者の臨床家としての気骨や矜持を垣間見ることができるでしょう。とはいえ、生半可な覚悟では読み進められません。というのも、読者であるこちら側のタフさをも問われているように思うからです。

 本著では、家族関係がこじれ、その歪みを背負い苦悩されている方々が紹介されています。著者のもとを訪れるのは、現状が「問題」だと認識しているクライエントですが、往々にして「問題」の真の当事者は容易には姿を見せません。それでも、著者は目の前の方と対話を続けるのです。粘り強く、そして、真摯に。

 「挙手傍観」という言葉があります。重大な局面で、何もせずにそばで見ていることです。自分にとって、かけがえのない家族が窮地に追い込まれ、葛藤の只中にいる時、ただ見守ることは遣る瀬無く苦しい。だからこそ、「良かれと思って」打開策を練ろうと必死であがくものですし、引き上げるべく奮闘するのでしょう。

 けれども、著者は警鐘を鳴らすのです。一般的には是とされる「愛情」や「絆」、「理解」という価値観そのものに。それは一体、誰の「問題」ですか、と。密着しすぎた「愛情」ゆえに、こじれた家族の関係性。それを断ち切るためには、「タフラブ―手放す愛」という快刀こそが必要だと強調するのです。

 それは、「血は水よりも濃い」と信じて疑わない人にとって、衝撃的なメッセージかもしれません。あなたは一体何を言いだすのだ、と。何とか解決するのが「愛情」ではないかと。

 そうではなく、家族が互いにヘルシーな関係性でいられるよう、あえてウェットな「愛情」を手放すのです。アドラーも言うように、「課題の分離」によって、両者にスペースが生まれ、おぼろげながら境界線が浮かび上がります。「私の問題」は私が所有するものであり、「他者」のそれではない。「他者の問題」は他者のものであって、「私」が引き受けるものではない。そう、たとえ、家族であっても。

 つまるところ、「タフラブ」とはそうした姿勢なのでしょう。自分事と他人事を切り分けること。そして、互いの持ち場の限界を認めること。逆説的なようですが、それが、結果的に両者の尊厳を守ることに繫がるとも思うのです。

 「タフラブ」に徹することは、決して孤立を意味するわけではないのです。それぞれが孤独や淋しさと共存しつつ、自他の領域を侵さないこと。曖昧な不安を抱えながら、それでも余計なことをせず、淡々と変わらずにそばに居ること。そして、希望の萌芽が芽吹くのをただ信じて、じっと待つということ。脆さも含めてOKを出すこと。つまるところ、筆者の言う「タフラブ」とは、自他の傷をも愛し、関係性の修復を祈る営みとも言えるかもしれません。

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