この話はビデオ通話に特化したものにはならないと思います。心理療法は、治療者と患者が直接顔を合わせるものとして始まりました。やがて、電話が使われるようになります。メールが普及すればそれが用いられ、ビデオ通話が広まると今度はそれが用いられました。現在、ビデオ通話はそれなりに最先端ですが、数年経てばどうなっているかわかりません。歩みを止めない技術革新を前に、ビデオ通話だけを語ることに私は意味を感じないのです。それに、その手の議論はパンデミックの頃、偉い先生たちが随分やってくれました。
 私は2001年から5年間米国で臨床をしていましたが、米国は国土が広いこともあって、電話の心理療法は珍しくありませんでした。その長短や注意事項も当時から活発に議論されていました(Aronson, 2000)。よく目にしたのは「視覚的情報がないことの不十分さ」「耳元でささやき合う人間関係の距離の問題」「声だけでアセスメントや診断をする危険性」といった批判や注意喚起でした。
 ビデオ通話はだいぶ違います。互いの表情も見えますし、視覚的情報もあります。耳元でささやくだけにはなりません。顔や体の動きの一部が見えますから、アセスメントや診断もずっとやりやすくなります。悪くないツールです。でも、これも警告を受けます。「通信状態によって、微妙なずれが生まれる」「画面が限られている」「空気感や匂いなど、空間を共有できない」などと言われるのです。電話の時もそうでしたが、新しい技術を用いた心理療法は、対面の心理療法よりも一段劣るものだとされます。
 そんな話の一方で、内閣府の「ムーンショット計画」では「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」することが謳われています。「誰もが多様な社会活動に参画できるサイバネティック・アバター基盤」には、以下のようなことを挙げています(内閣府、2023)。

◦2050年までに、複数の人が遠隔操作する多数のアバターとロボットを組み合わせることによって、大規模で複雑なタスクを実行するための技術を開発し、その運用等に必要な基盤を構築する。
◦2030年までに、一つのタスクに対して、一人で10体以上のアバターを、アバター1体の場合と同等の速度、精度で操作できる技術を開発し、その運用等に必要な基盤を構築する。

 通信の微妙なずれや画面の制限、空間の共有の問題などは、これが実現したら昔話になるでしょう。なにしろ、別々の場所にいる治療者と患者がアバターで実際に・・・会うのです。でも、やっぱり、偉い先生に批判されるでしょう。たぶん「アバターは本人ではないからダメ」と言われます……全否定です。どこまで技術が進んでも同じことです。だから、電話だろうがビデオ通話だろうが話は同じなのです。私は電話もメールも、ビデオ通話も一通りやりますが、そういった話をすると、同僚から必ず「それで大丈夫なの」と言われます。それはいつも「どこか違う」のです。
 こうした技術を用いた心理療法は、何と比べて「違う」のでしょうか。おそらくそれは、ある種の専門家が信じる「対面の正しい心理療法」の姿と比べて違うのです。新しい技術を用いたものが「違う」のは当たり前です。「正しい心理療法」が作られたときに、その方法はなかったのですから。でも、心理療法はいつの時代でも、新たな技術の発展とともにあります。対面の心理療法だって、交通機関の発達や経済発展があったからこそ生まれたものです。呪術の時代には対面しない治療法もありました。交通が発達したから「遠くの専門家のところに行く」患者が生まれたのです。
 ものの見方を逆にしてみましょう。心理療法の側からビデオ通話を見るのではなく、ビデオ通話の側から心理療法を見るのです。ビデオ通話に初めて出会った自分を想像してみてください。何をするでしょう。私ならそれで、誰かと通信します。そこにその技術があれば、私たちは誰かと通信するのです。相手は家族かもしれないし、心理療法家かもしれないし、あるいは遠くの国の見知らぬ相手かもしれません。電車があれば、私たちがそれに乗り込むのと同じことです。
 知覚心理学者のギブソン(Gibson,1979)は、アフォーダンスという概念を提唱しています。それは、環境(モノ)と人(動物)との相互交流です。人がモノを使い、モノが人に使用させる方法は、それをデザインした環境と使用者との相互交流によって決まるという考え方です。ドアの取手は、人がそれを引っ張る行為を可能にしていますが、それは、それが人に使用しやすくデザインされているからだけではありません。それが、それを見た人の引っ張る行動を誘発するからです。取手が「引っ張る人」を作り出すのです。
 人は通信する生き物です。郵便があれば手紙を出し、電話があればそれをかけます。ビデオ通話があればそれを使います。アバターがあれば、私たちはそれで誰かと会うでしょう。そういった人が生み出されたのです。その技術を前にした私たちは、電話の時よりも超えて・・・広く・・人と・・かかわり・・・・自分・・だけの・・・特別な・・・人を・・探し・・出そう・・・とする・・・でしょう。1970年代にはいなかった人間です。ネット通信ゲームや婚活アプリの普及を見れば、それが地理的制限を超えて、自分だけの特定の人を探し出そうとする人間をどれだけ多く作り出したかはわかります。
 ビデオ通信は、そうした欲望をあからさまに表現する患者や治療者を生み出したのです。患者は、地域を超えて自分だけの特別な治療者を探し出そうとするでしょう。治療者は、地域を超えて自分を求める可能性のある人を探そうとするでしょう。AI自動翻訳機を通して、言葉を超えた心理療法をしている人もいるかもしれません。彼らがなぜそこまでするのかと言えば、それは会えない場所に住む言葉の違う人の中に、自分だけの特別な治療者がいるかもしれないと思うからです。
 ミッチェル(Mitchell, 2002)は、ロマンスの感覚は西洋の近代化とそれが作り出した家族制度から生まれたと述べます。彼によれば、ロマンティックな情熱の中心は「自分だけの特別な人」の感覚です。それは「最愛の人のような人は他にはいない。私たちはお互いのために作られた」(p.99)という信念です。この種の情熱は「中世社会から近代的な家族生活への移行の中で、ともに進化してきた」(p.100)ものです。移動手段の乏しい先史時代、狭くまとまっていた人たちは「特別な人」の感覚をあまり発展させなかったのです。移動手段や通信技術の発展がその欲望を見えやすくしました。同時にそれは、それを喜ぶ人とそれに苦しむ人を生み出しました。まさに心理療法が扱うテーマです。新たな方法が良いの、悪いのと言っている場合ではありません。この方法でこそ見えやすくなる心の側面をとらえるチャンスです。

●参考文献
Aronson, J. K. (2000). Use of the Telephone in Psychotherapy. New York: Jason Aronson.
Gibson, J. J. (1979). The Theory of Affordances.
In. The Ecological Approach to Visual Perception(pp. 119-135). New York: Psychology Press.
Mitchell, S. A. (2002). Can Love Last? The Fate of Romance Over Time. New York: W. W.Norton.

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