アメリカにマズローという心理学者がいました。彼は欲求階層説を提唱しました。人間の欲求は低次なものから高次なものまでピラミッドのように五層になっていて、下から上に「生理的欲求(空気、水、食物など)」から「安全と安定の欲求」「愛情、集団所属の欲求」「自尊心、他者からの尊敬の欲求」「自己実現の欲求」となります。人間はまず生理的要求を満たし、それが満足されると「安全と安定」を求め、順次より高次な欲求を満たそうとするのです。もっとも高次な欲求が「自己実現の欲求」です。自己実現する人間とは、自己や他人や自然も受容し、自発的で仕事に熱中し創造性の高い人です。おそらく動物では「愛情と集団所属の欲求」までで、それ以上の欲求は人間独自の欲求と思われます。
三〇年近く前にニューヨーク近郊の児童自立支援施設を訪問したことがあります。虐待を受け家出し、非行に走った少年に会いました。「家には帰りたくないの?」と尋ねたら「家は食べ物がないし、暖房も止められているから寒い」「ここは暖かくていい、第一ご飯がある」との返答でした。その時マズローの欲求階層説が私の頭に浮かびました。やはり生理的欲求や安全・安定の欲求が満たされないと、自己実現などは不可能です。日本に戻り図書館で児童虐待の件数を調べてみました。驚いたこと全国で一〇〇〇件程度でした。正確な数字は記憶していませんが、アメリカの五〇分の一くらいだった思います。その時は、日本は子どもを大事にする国だと思いました。
しかし、近年児童虐待の対応件数は一〇万を超えています。また、全国で起きる虐待事件の報道には胸が痛みます。三〇年前の日本は、児童虐待が少なかったのではなく、通告制度や対応する組織が未整備で、件数としてあがってこなかっただけなのです。来談者中心療法を創始したロジャーズは、若いころロチェスターの児童虐待防止協会で働いていました。虐待の防止やリスクのある家族への支援は、臨床心理士や公認心理師の重要な業務です。児童虐待や心理臨床に関心のある高校生や大学生の参考になれば幸いです。