はじめに

調律(tuning )とは、音楽用語で、楽器の弦などを、正しい音が鳴るように調整することを指します。音楽には固有のリズムやトーン(調子)があり、さまざまな楽器の音があわさってひとつの音楽を構成します。調子が合えば、協和音が空間を巻き込んで共鳴し、心地よい気持ちになりますが、逆に合っていない時には、不協和音によって不快な気持ちにさせられます。

 単細胞生物から脊椎動物まで幅広い生物は、生きるためにリズムを刻んでいます。生き物はさまざまなリズムで移動し、共生し、呼吸し、心臓を働かせながら、常にリズミカルな世界に生きています。こと人間においては、そういった生態レベルのリズムから、動きの速さ、語りの速度といった社会的リズムに至るまで、幅広い動きの特性を持ち、個々人が自分のリズムの中に生きているのです。加えて、独自の声のトーンを持ち、状況に合わせて振る舞いを変えながら過ごしています。

 それぞれの調子を持つ人と人が出会う時、自然と相手に呼吸を合わせたり、相手の気持ちや状態に合わせて声のトーンやタイミングを調整したりしています。それ自体はごく自然なことですが、互いのリズムがぴったり合うこともあれば、もちろん合わないこともあります。そうして互いの調子を調律し合うところに、感情が生まれるのです。それはまさに、さまざまな楽器がひとつの音楽を奏でることと同じように捉えることができるでしょう。

心理臨床における調律

 心理臨床の現場では、援助者であるセラピストがクライエントや患者さんに「合わせる」ということが日常的に行われています。言葉を話しづらい状態にある人に対しては、呼吸のリズムや声のトーンを合わせてみることも大切な関わり方です。より複雑なコミュニケーションでは、話したいことがなかなか言葉にならない人に対して、じっくり「待つ」ことや、少し体調の悪そうな患者さんに対して、状態を理解した上で、個々人に合わせた過ごし方ができるような環境を提供することなど、援助を求める人の状態に「合わせていく」ことは、心理臨床の基本です。

 これは、調子を合わせてもらうことが、その人に心地よさをもたらすからです。この根底には、母親が泣いている赤ん坊を抱え、その泣く調子に合わせて体を揺らしてあやす行為が関係しています。これは情動調律と呼ばれ、人間は生まれて間もない頃から他者に調子を合わせてもらうことで、気持ちが安定し、「守ってくれる他者」の存在の実感を持てるようになります(写真1)。心地よい環境を提供してもらえることで、クライエントや患者さんは落ち着くことができ、その上で自分自身の悩みを振り返ったり、症状について考えるなど、自分の心と向き合う作業を行う環境が整うのです。この意味で、調律は「心理臨床における癒しの前提となる環境を整える行為」だといえるでしょう。心理臨床では、身体感覚のレベルで合わせることから、行為レベルで合わせることまで、幅広い次元で対象者に「合わせる」ことが大切なのです。

現代における調律の難しさ

 現代の世の中は、人間関係の希薄化が叫ばれはじめてから久しく、その影響がさまざまな場面に顕在化してきています。インターネットを通じて情報のやりとりができるため、人と人が面と向かってやりとりをする必要性は、以前よりもずっと少なくなりました。対面しないやりとりにおいては、姿勢や表情、話すリズムやトーンなどによる非言語的な交流がなされないことにより、調律を行うことができません(写真2)。

 
 「合っていない」状態に気づくこともできないやりとりが、日常的に行われる時代になっているのです。高校生や大学生の中には、スマートフォンでSNSにより他者とやりとりをする方が、対面するよりも多いという人もたくさんいるのではないでしょうか。心理臨床においては癒しにつながるベースとなる雰囲気づくりのための調律が、日常的に行われ難くなっているのです。このことは逆に、調律してもらうこと自体が貴重な体験となり、ハードルが高くなりつつあることを意味します。加えて、それが貴重だからこそ求められているとも言えます。〝なにかズレている気がする〞〝相手の気持ちがわからない〞〝この人といると不快に感じる〞などの体験が多い人は、生命の本来の原動力を活性化する調
律の回路を動かすためにも、対面のコミュニケーションを大切にしてみてほしいと思います。あるいは、悲しい気持ちの時に悲しい調子の音楽を聴くなど、自分の感情状態に合った音楽を聴くことは、自分自身の心の調子を整えることになりますし、その音楽についての話を他者と共有することもまた、コミュニケーションで他者と「合っている感じ」を体験する方法のひとつです。

おわりに

 音楽を合わせることは、楽器ができることを前提とした話ではありません。音楽は人間本来の生きる原動力を活性化する営みで、いわば人間のうちにある自然現象の表現形態です。この意味で音楽はすべての人の心に宿っており、人は日々、生きることで自分の音楽を奏でています。
誰もが歌い、詠い、語らいます。実際に音を奏でることも含めて、自分自身がもつ対面のコミュニケーションにおける音楽は、合わせたり合わせてもらったりするという基本的態度が、癒しの基盤を整えるのです。

 調律の機会が減っている現代だからこそ、同じ時間や空間を対面で共に過ごすこと、そこでの体験を共有することについて、開かれた態度でありたいものです。

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