20年近く前になりますが静岡の富士市からはじまり、その後、全国的なキャンペーンとなった「働き盛り世代のうつ自殺予防対策」のキャッチフレーズが「お父さん、ちゃんと眠れている?」でした。背景を説明します。当時、自殺は中高年男性の死亡原因として3大疾患に匹敵する数字でした。しかも増加傾向にあり、対応が迫られていました。そして、この自殺と関わりが深いのがうつ病です(最近では気分障害という言い方が一般的ですが、ここでは当時の資料のままうつ病と記します)。そこでうつ病の早期発見やケアが望まれるのですが、精神科やクリニックの受診やメンタルヘルスの相談には「こころのバリア」が働きやすく、それが顕著なのが中高年男性と言われています。うつ病者全体の受診率は25%というデータもあります。「こんなことで相談しては恥ずかしい」「弱い人間と思われたくない」といった誤認識が働くのかもしれません。そこで切り口とされたのが睡眠だったのです。うつ病の症状のひとつに睡眠障害があり、睡眠不足、不眠、倦怠感などを伴うことが一般的です。このキャンペーンは、こころのバリアを迂回して、睡眠を切り口として、うつ病とそれに伴って生じる可能性のある自殺にアプローチしようという取り組みだったのです。
リーフレットや大小さまざまなポスターが作られ、街中のあらゆるところに設置され、バスや幹線道路にも掲げられました。TVのCMでは、お子さんがお父さんに「パパ、ちゃんと寝てる?」と問いかけます。当時の関係者によれば、眠りに困難さを持っている人が、アルコールや市販薬を買いにいくと考え、お酒を扱う店舗やドラッグストアなどに重点的に貼ったそうです。さらに内科医や産業医といったかかりつけ医や調剤薬局の薬剤師さんにも睡眠状況の問診をするよう働きかけ、ゲートキーパーを増やしていくことも精力的に行われました。街をあげて多くの人々を巻き込んだこの取り組みが注目され、全国的なキャンペーンとされていった経緯があるようです。
睡眠を通した気づきと支援
この取り組み、たくさんのなるほど!があります。ひとつは睡眠が様々なことにつながっていることです。睡眠がその人の内面やある種のリスク、健康、生活といった状況を表わす手がかりとも言えます。睡眠不足は生活習慣病とも関わりが深いと専門家が指摘します。もうひとつは、ある人に援助的に近づこうとするときに、何を窓口、切り口とするのかです。しばしば援助の必要がある人は援助をうまく求めることはできません。むしろバリアが生じることもあります。そのときに、睡眠という、誰しも必ず行うことから話題にしていく。〈辛いことない?〉と聞かれれば「別に…」と答えるかもしれない人も、〈昨日、どれくらい寝ましたか?〉には、「〇時に布団に入った。△時間くらい眠った」と話してくれるものです。普段、相談支援に携るとき、〈お困りは?〉とはじめることはまれで、〈生活の様子について教えてください。ご飯食べれてますか、ぐっすり眠れてますか?〉と聞くことが多いです。会話のキャッチボールが続くように、かつ状況が垣間見えるような切り口を用いる工夫はあらゆるところで行われているのだと想像します。
「お父さん、眠れている?」というやさしい問いかけには、色んな意図が含まれていたのですね。