はじめに

 星野源はこの映画をみて、「一人スタンディングオベーション」をしたといいます。この映画のラストシーン、すなわち1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻を受け、9月3日に英国がドイツに対して宣戦布告をしたまさにその日、主人公である英国王ジョージ六世は、来たる第二次世界大戦に備え、全英国民を鼓舞するためにスピーチを行いました。その英国王の「スピーチ」を目撃すると、みているこちらの体が思わず動いてしまうのは肯けます。
 このように最後のスピーチは感動的で、後の英国王ジョージ六世となるアルバート王子(コリン・ファース)と言語聴覚士のライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)の演技の掛け合いには目を奪われます。しかし、この映画をみていると、地理的にも時間的にも遠い世界に存在する英国王という人間が一人の深い苦悩を抱えたリアルな人間である事実が浮かび上がり、はっとさせられます。

 言語聴覚士は言語能力などを回復させるリハビリを行う仕事ですが、ライオネルの仕事は心理臨床家の仕事と共通する部分が多分にあると思われますので、紹介します。

「英国王のスピーチ」のあらすじ

 この映画は、吃音を抱えた無口で内気な英国王とそれを治療する言語聴覚士の物語です。吃音とはいわゆる「どもり」のことで、話し言葉が滑らかに出てこない発話障害の一つです。
 例えば、映画冒頭でアルバートはある会場で挨拶のスピーチをすることになりますが、観客を目の前にすると言葉が出てきません。周囲はざわつき、冷ややかな視線が突き刺さります。やっとの思いで「私は…」と何とか話し出しますが、また止まってしまいます。それどころか、しゃっくりのような音さえ出てきます。国民の前で話すことが重要な仕事である王室者にとって、このような障害を抱えることは致命的であり、絶望そのものであることは想像に難くありません。そのため、アルバートは自身が国王になることを望んでいませんでした。

 父親の死後、兄が王位を継ぐことになりました。しかし、自由奔放な性格の兄は離婚歴があり家庭のある女性との結婚を望んだため、伝統的で厳格な王室と議会からは王位に相応しくないと反対の声があがります。さらに、ナチスが台頭する国際情勢の中、安定的に国を統治することが難しくなります。遂に兄は王位を辞して結婚を選び、アルバートがジョージ六世として王位継承することになりますが、肝心の吃音は治っていません。さて……。

「英国王のスピーチ」から考える心理臨床のフィクションとリアリティ

 ライオネルの治療は実際の心理臨床の仕事とは大きく異なる点もあります。例えば、心理臨床の仕事では治療者とクライエントが友人関係になることや治療者の家族を紹介するなどは原則としてありません。他にも心理臨床の立場からするとフィクションはありますが、ここではリアリティの方に比重を置いて、以下に共通点を解説しようと思います。

 一つ目はクライエントの歴史性と物語性(ナラティブ)を大事にする点です。これらは簡単に言えばその人の人生がどういうもので、どういう風に形作られ、現在困っていることがどのような経緯で起こってきたのかを自分自身の中に位置づけることです。

 ライオネルの元を訪れる前、アルバートは当時の有名な治療者を呼び寄せ、口にビー玉を詰めるなど(!)、様々な治療法を試みましたが、効果がなく行き詰っていました。その頃、数々のスピーチを失敗した記憶、激しく怒る父親の表情、子どもの頃に吃音を馬鹿にしてきた兄や周りの子どもの声といった「苦悩の記憶の断片」が、日々の生活の中で、あるいはスピーチを失敗する度に突然脳裏に浮かび、苦しみ続けていました。しかし、苦しんではいるものの、自分が何に苦しんでいて、なぜ苦しいのかが自分では分からない状態でした。

 ライオネルの元を訪れた時、アルバートはこれまで同様に吃音という症状の除去を求めました。ライオネルは「(アルバートの)吃音はなぜ起こるのか」という疑問をもちながらアルバートと会いました。この「(アルバートの)」というところが肝要です。なぜなら、吃音という症状(事象)は同じでも、人それぞれにその理由は異なるからです。ライオネルがそうした観点をもちながらアルバートと会うようになると、彼の「苦悩の記憶の断片」が「苦悩史」へとまとまっていきます。

 すなわち、左利きに生まれ厳しく右利きに矯正されたこと、乳母から虐待されていたこと、父親から過酷な躾を受けていたこと、兄から吃音を馬鹿にされたこと、弟を亡くしたことなど、これまでの体験が一つの自分史としてまとまったものへと変化し、自身の中にある混乱が整理され、自分が何に苦しんでいて、何が不安なのかが理解できるようになっていきました。それとともに、吃音も少しずつ改善しました。

 二つ目は"地味である"という点です。「吃音に苦しむ英国王の治療をする物語」と書くとドラマチックな展開が起こるように思えますが、描かれていることは地味で地道なことの積み重ねです。魔法のように吃音は治らないし、アルバートは同じような失敗を繰り返します。プライドを捨てて努力した分だけ、治らないことへの失望は深まり、苛立ちは募ります。ライオネルにその苛立ちをぶつけても、治療を続けることを求められます。気を取り直して通い続けても、また同じ失敗を繰り返す。おまけに現実生活では父の死、兄の奔放な振舞い、それに伴う国の情勢不安、自身と対比的に雄弁なスピーチを行うヒトラーの台頭など、心が折れそうなことが何度も起こります。そして、半ば喧嘩別れのような形で治療は中断します。アルバートは変わらない現状に幻滅し、ライオネルは深く傷つきます。しばらくの間、治療は再開されません。しかし、互いを意識していること、治療が終わっていないと感じていることは映像の端々から感じられます。そして、治療が再開され、また地味な治療の日々が始まる……。

 最終的には非常に感動的なラストシーンが待っているけれど、そこに至るまでの道のりはコツコツ、コツコツとした過程であり、そこに私は心理臨床のリアリティを感じました。

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