新しい環境になると、「友だちをたくさんつくりたい」と意気込む人は多いかもしれません。その思いは大切にしたいですが、意気込むほどうまくいかなかったり、人付き合いに疲れてしまったりすることもあるのではないでしょうか。私が勤務する大学の学生相談室にも、対人関係で悩む学生は数多く訪れます。なかなか難しい悩みです。
大学生活で人と繫がるってどうすればいいのでしょう?積極的に周りに声掛けして、LINE交換して、 Twitterやインスタをフォローして、サークル掛け持ちして人脈広げて、バイトも頑張って、遊びや飲み会があれば必ず参加……まぁそんなやり方もあるかもしれません。でも、今回はもう少し静かな世界を覗いてみようと思います。
行き合う大学生
いきなり自分の話で恐縮ですが、私が大学生になって初めてできた “友だち”は、寮へと向かう路線バスを待っていた時に後ろから「ここから出るバスは大学に行きますか?」と声をかけてきたIくんです。お互い地方から出てきた新入生で、たまたま寮も同じ棟ということが分かりました。寮は数十棟あるのですごい偶然!」それから一緒にご飯を食べたり、日用品を揃えに買い物に行ったり、新歓でタダ飯が食べられるサークルの情報(入るつもりはない・笑)を交換したりと、初めての 一人暮らしの心細さを埋めてくれる大切な存在となりました。
「行き合う」とは偶然の出会いを意味します。全く接点のないはずの人と行き合う……それは道端で、たまたま近くになった授業の座席で、もしくは同じアパートの隣同士でかもしれません。こういった出会いこそが、大学生ならではの「人と繫がる」きっかけのように思います。 私は勤務校で”いこまいセミナ ー”なるものを主宰しています。これは正課外の少人数制(一〇~二〇 名)のグループプログラムで、日常、学修、就活に役立つスキルの獲得とともに、人と人との出会いと交流を目的に様々な内容で開催しています。「いこまい(行こまい)」とは東海地方の方言で「行ってみよう」を意味しており、気軽に参加してほしいという願いを込めて命名しました。ここで私は何人もの大学生が行き合う瞬間を目撃してきました。
調理実習の回では来月から協定校に留学する女子学生と、その協定校から来ている留学生が行き合い、リラクセーション法の回では関東の進学校出身で一浪し不本意入学してきた男子学生と、関西の進学校出身で一浪し不本意入学してきた男子学生が意気投合し、プレゼンテーションスキルの回では中学の同級生だったけど、お互い同じ大学に進学していたとは知らなかった二人が再会しました。もちろん、彼彼女らは私が引き合わせようとしたわけではありません。ただ、そこに「行った」からこそ偶然の繫がりが生まれたのです。
つらなる大学生
新学期、キャンパスで新入生と思しき学生たちを見た時に、私は「つらなってるなぁ」と思うことがよくあります。あどけなさとぎこちなさが充満したその”群れ”は繫がっているというには凝集性が低く、未成熟な印象を抱きます。こうした群れは日々かたちを変えながら、キャンパスのそこかしこに点在しています。
今から一五年ほど前、大学生のラブストーリーを描いた『オレンジデイズ』というドラマが流行りました。 作中に今をときめく俳優陣がキャンパス内で談笑するというシーンが出てくるのですが、当時大学生だった私と友人たちは、この「学生が集ってキャンパスで他愛のない会話をする行動」のことを”デイズ”と名付け、「今からデイズするか」「あいつらデイズってるな」と意味もなく集まることを楽しんでいました(特に芝生ですることに拘っていました・ 笑)。ドラマでは華やかなイメージで人と人との深い関係性が描かれていましたが、そうではなくとも、こうした「つらなる」行動には意味があるように思います。
対人関係で悩み私のもとに訪れた学生が、誰かと一緒に教室移動している時は安心すると話してくれたことがありました。そこに何か深い会話はなくとも、行動を共にすること=つらなることで所属感を得ていたようです。これを人との繫がりと呼べるのか、ましてや友だちと呼んで良いのかという意見はあるかと思います。ただ、そこに「居る」という事実によって繫がりを感じられることもあるようです。友だちづくりは苦手だけど友だちはほしい、そんな人はまずはどこかにつらなることから始めてみても良いかもしれません。
行き違う大学生
「行き違う」には、相手と出会わないという意味と、意志が通じず誤解や食い違いが生じるという二つの意味があります。大学での人間関係はこの両方が起きるように思います。大学には学級という括りがない、または弱いので、たまたま仲良くなった人でも履修科目や生活スタイルが変われば疎遠になることが起きてきます。実験や実習のグループで仲良くなっても、その授業が終わったりグループが変更されたりすれば連絡を取り合うこともなくなり、バイトのシフトが重なれば話すけど、一緒に入ることがなければ会話することもなくなる、そんな薄くて脆い関係性は大学生活の中では多く存在します。また、これはどの年代でも起こることですが、とても深い仲だったとしてもちょっとしたきっかけで関係がこじれてしまうこともあるでしょう。
私がお会いする学生の中にも、大学一、二年生の頃は人とつらなり、繋がることに一生懸命だったけれど、三年生くらいになるとその関係性に疲れ、一人になれる時間を大切にし、あえて人との距離を取ろうとする人がいます。本稿のテーマと真逆のことを言うようですが、大学生(青年期)は孤独を感じ、抱えることを学ぶ時期でもあるのです。そして、人との行き違いがあるからこそ、自分にとって本当に繫がりたい人が見えてきます。
繋がる大学生
昨今は新型コロナウイルス感染症の影響によって、私たちは人との繫がり方を再考せざるを得ない事態にも直面しています。「袖振り合うも多生の縁」の袖を振る機会は奪われ、つらなることにもまだまだ制限や制約が課されています。しかしながら、オンラインの活用など大学では新たな繫がり方が模索されています。そして、いつの日かキャンパスに活気が戻った時には、行き合い、つらなり、そして時には行き違いながら、学生には人との繫がりを感じてほしいと願っています。