受験で傷ついた人

 私のカウンセリングルームには、受験で傷ついた人たちがしばしばやってきます。
 もちろん「受験の傷を癒したい」という理由でカウンセリングを申し込む人はいません。毎日過去の受験のことを思い出して悶々としている人はいない。そうではなくて、日々の落ち込みや、職場の人間関係、あるいはパートナーとの関係など、現在起きている切実な問題をなんとかしたくて彼らはカウンセリングにやってきます。

 だけど、彼らの心に起きていることをよくよく調べていくと、そこに受験による傷つきが見つかります。その受験は数年前のこともあれば、20年以上前のこともありますが、彼らがまだ大人になる前に体験したことが、心によからぬものを残してしまったようなのです。

徒競走で傷つくのか?

 誰しも第一志望の学校に落ちてしまったら傷つきます。何事もそうですが、一生懸命努力をして、うまくいかなかったら傷つく。当たり前のことで、むしろそうやってきちんと落ち込めるのは、健康なことです。

 だけど、普通はそのような傷は回復していきます。たとえば、第四志望の学校に進学して、そこで親友ができたなら、その学校にきてよかったと思うでしょうし、自分の努力が足りなくて不合格だったと思いが至ると、次は頑張ろうと前向きに思えるかもしれません。時間はかかるかもしれないけど、たちの心には現実を受け入れて、回復していく力があります。

 ですから、「受験地獄」と言ったりもするけど、受験自体が悪魔的なイベントではないと思うのです。それは就活や恋愛、出世争い、そして運動会の徒競走と同じで、人生で何度も繰り返される「競争」の一つにすきません。私たちの人生は、それらに勝ったり負けたりしながら進んでいきます。そうやって、自分だけの物語が紡がれていく。

 にもかかわらず、受験が生傷として残り続けている人たちがいます。しかも、そこには、受験に落ちてしまった人だけではなく、第一志望に合格し続けてきた人も含まれます。その傷は競争に負けたことで生じたのではなく、競争に参加したこと自体で生じたようなのです。

 ふしぎなことです。徒競走の勝ち負けがその後の人生に深刻な影響を及ぼすとするなら、それはただの徒競走ではありません。何かがそこに付け加わっているのです。

 受験で傷ついた人たちは、本当のところ、何によって傷つけられたのでしょうか?

生々しい親子の物語

 カウンセリングで受験の傷つきが語られたとき、私は次のように尋ねます。

「受験で落ちるのはつらいことだけど、実はそれはみんなに起きることで、みんなはそれでもそこから回復していくわけだけど、なぜあなたにはそれが難しかったのだろう?」

 この問いを受けて、彼らが語り始めるのは、親子の物語です。
 たとえば、ある父親は子どもが模擬試験で悪い点をとると「誰が塾代を出していると思っているんだ」と罵り、土下座させました。ある母親は受験の失敗を機に、まるでその子が家からいなくなったかのように関心を失いました。またある人は、成績の悪い兄が「あいつには生きている意味がない」と親に邪険にされる中、成績の良い自分だけはなんでも物を買ってもらえたと語っていました(これもまた傷つくのです)。

 無限に語られるこれらの物語の特徴は生々しさです。そこでは、親と子の間に本来引かれているべき境界線を踏み越えて、親の強烈で生々しい感情が子どもに注がれています。期待、愛情、失望、怒り。感情は様々ですが、普通だったら人間相手に直接ぶつけることを躊躇するような言動が、飛び交ってしまいます。
 そう、受験というありふれた競争が心に傷跡を残してしまうのは、そこに親の生々しい感情がのっかってしまうからです。

頭の悪い人には価値がない

 ならば、そのとき、飛び交っているものとは何か?
 私はそれを「頭の悪い人には価値がない」という考えだと思っています。このとき、二つのパターンがあります。

 一つは子ども自身が「自分は頭が悪いので価値がない」という考えを持ち、自分を責めることです。これは受験の失敗からしばしば起こるパターンで、自尊心を深く傷つけます。もう一つは「自分は頭が良いけど、頭が悪い人には価値がない」という考えです。姫野カオルコ氏の『彼女は頭が悪いから』(文藝春秋、2018年)という小説では、東大生が偏差値の低い女子大の学生を軽蔑して、モノ扱いするシーンが描かれています。ここには、受験の成功によって、他者と普通に付き合うことができなくなった姿を見て取れます。そして、そういう人は、自分が「頭の悪い人」になることをいつも恐れることになります。それもまた受験による傷つきと言えるでしょう。
 それらはいずれも痛ましいものですが、忘れてはならないのは、そういう考えを子どもに注ぐのが親であることです。

 ここにも二つのパターンがあります。一つは親自身が自分を「頭が悪い」と傷ついている場合です。その自分に向けられている攻撃性が、受験を機に子どもに向かいます。逆に親自身が自分を頭が良いと思うがゆえに、「頭の悪い人は価値がない」と思っている場合もある。そのとき、子どもは頭が悪いと見られた途端に、価値のない人として扱われてしまう。

 様々なパターンがあるのだけど、誰かが「頭の悪い人」になってしまうことが、子どもの心に痕跡を残すのです。

親も傷ついている

 このように書くと、「親が悪い」と私が主張しているように見えるかもしれませんが、話はそうシンプルではありません。

 というのも、よく考えてみれば、親自身も「頭の悪い人」という考えに傷ついているからです。だからこそ、子どもの受験をめぐって、普段の彼らならきちんと制御できるはずの生々しい感情がむき出しになってしまう。

 このとき、親たちを傷つけているのは何か? それは私たちの社会ではないか?
 私たちの社会では学歴が収入や社会的地位に影響を与えます。そして「頭の良さ」が能力の高さとして称賛されています。足の速い遅いと違って、「頭の良し悪し」は、この社会ではきわめて重視されている。そして、親自身も、そういう社会で日々勝ったり負けたりして、傷ついている。
 運動会の徒競走は遊びにすぎないけれど、子どもの受験は親自身が生きている社会の厳しい現実とつながっています。だから、子どもの受験に直面すると、親も冷静ではいられなくなってしまうのです。自分でも言いたくないことを言ってしまい、やりたくないことをやってしまう。

 しかし、本当のところ、社会は多様です。そこには様々な生き方があり、様々な幸福の形がある。頭の良し悪しという定規以外にも、様々な価値があります。だけど、傷ついていると、人は一つの定規しか見えなくなってしまう。
 親も子も一つの定規しか見えなくなったとき、受験は悲劇になります。だから、実はそこに複数の定規があることを話し合う。それが私たちカウンセラーの仕事です。

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