心理臨床の先達の卒業論文はいったいどんなテーマで書かれたのか? そしてそのテーマはそれからの臨床活動とどうつながっているのか? 今回は、長く日本の精神分析的臨床を牽引されてこられた鑪幹八郎先生にお話を伺った。

なぜ結果が出ないのか?

 心理学を学んだ後は小学校教師になるつもりだった。元来子どもが好きだったが、大学では主に実験系の心理学研究が行われていた。思案した末、鑪は発達心理学のウェルナーを参考にしながら、知的障碍児の知覚についての実験を行うことにした。外傷性(出産時の外傷や妊娠中の薬剤の影響などによる)知的障碍と、内因性(より遺伝負因の強いと思われる)知的障碍とで、障碍児の視覚的情報の受け取り方が違うのではないかという仮説を立て、実験を行った。

 実験は被験者集めから難航した。まず戦争孤児を保護する施設に泊まり込み、一人ずつ知能検査を行うところから始めたという。刺激である図像を提示するタキストスコープ(瞬間露出器)も手に入らなかった。刺激画像は、うちわを仰ぐように手で素早く提示するしかなかった。それでも施設では歓待され、なついてくる子どもたちがうれしかったという。

 しかし結果は出なかった。二つのグループに差は見られなかったのだ。差はないという結論で卒業論文を提出した。提出はしたものの、鑪は納得できなかった。ウェルナーの先行研究では、二つのグループに差があることが示されていた。

 ではなぜ結果が出ないのか? グループ分けが正確ではなかったせいか、実験器具の問題か、はたまた本当にそこには差がないのか、疑問が残った。もう一回実験をしてはっきりさせたい、その思いがどうしても抑えられず、鑪は教師になるのをやめ、京都大学大学院へ進んだ。

 大学院では、先輩の協力のもと慎重に被験者を選びグループ分けした。念願のタキストスコープは研究室の助手が精巧なものをわざわざ作成してくれたという。そして満を持してのリトライ、今度こそと思った。

 しかしやはり差は出なかった。「苦労が水の泡だ」と落ち込んだ鑪だったが、「心理学の研究は仮説通りにならないのがすごく大事。結果が出なかったということを証明できたことに意味がある」という教授の言葉に救われたと感じた。

卒業論文に助けられ

 実験からスタートした鑪の研究生活だったが、子どもについての興味は薄れず、プレイセラピーを通して徐々に臨床への興味が膨らんでいった。今でいう不登校の問題との格闘の末、米国のホワイト精神分析研究所へ留学、精神分析について訓練を受けた。言葉の壁と留学資金の問題で、大変な三年間だったという。しかしそんな苦難の留学生活を経て帰国する鑪を助けたのは、失敗に終わったと思っていた卒業論文だった。

 帰国後の勤務先を探していた鑪に、知的障碍児を指導する教員の養成を進めていた大阪教育大学から声がかかったのだ。結局、卒業論文における障碍児研究の経験が決め手となり、鑪は大阪で教鞭を執ることになった。この時ほど卒業論文に助けられたと感じたことはなかったという。

影響はその後も

 インタビューの三日後、鑪先生からメールを頂いた。自身がE・エリクソンの著作を翻訳した際、「epigenetic development 」を「個体発達分化」と訳したが、それを「H・ウェルナーの考えと紛らわしい」と批判されたことがあったのを思い出されたそうだった。卒業論文で参考にした発達心理学のウェルナーの影響が、その後の精神分析的な仕事の中に見出されていたこと、そしてそれを忘れていたことに自分自身驚いたという。卒業論文の経験は鑪先生の中に思っていたよりも深く息づいているようだった。

鑪 幹八郎(たたら・みきはちろう)

 一九五七年熊本大学教育学部卒業。京都大学大学院博士課程修了。教育学博士。ホワイト精神分析研究所で精神分析の訓練を受け、A・リッグスセンターではエリクソンの下、研究に従事。2015年瑞宝中綬章受勲。

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