はじめに

 サンは、怒りに震え、我を忘れています。自分を育てたもののけ達や森を傷つけ、自然を荒らして奪っていこうとする人間への怒りです。そしてその怒りを動力にして、タタラ場を治めるエボシを殺めようとします。さらには、助けてくれたアシタカをも刺し殺そうとしてしまいます。それが、サンとアシタカの出会いです。
 時に怒りは、現実を見失わせます。そのような怒りというのは、厄介で危険な負の感情に見えます。それでも、どうして我々には怒りという感情が生まれてくるのでしょうか。どのような感情であっても、生まれてくるには理由がありそうです。

怒りとはどのような感情なのか

 みなさんは、どのような時に怒りを感じるでしょうか。攻撃されたと感じる時? 誰かが自分を大切にしてくれていないと感じる時? 自分の信念と他者の信念が違う時? 思うようにならない時? それとも、よくわからないイライラとして体感されることもあるでしょうか。一言で怒り、言い換えると攻撃性と言っても、それはひとつの理由から生まれるひとつの感情ではありません。
 そもそも人間には、動物的な本能としての攻撃性が存在しています。それは、進化をさかのぼっていくと、弱肉強食の世界を生き延び種を残していくために、捕食し、身を守るために必要なものでした。ただし、現代の私たちには、そのような直接的な攻撃性を生きるために使うことはほとんどありません。むしろ、腹が立ったから殴るというような、衝動を即座に発散させる行動に移すばかりでは、社会が混乱してしまうので、人間は理性というもので衝動を抑えるように発達してきました。
 しかし弱肉強食ではなくても、攻撃性が自己防衛のために必要な場合もあります。他者から一方的に理不尽なことをされたり、明らかに悪意を向けられたりした時にさえ我慢が必要とは言えません。「そういうことはやめてください」と反発することや、憎むべき相手をきちんと憎むことも、ひとつの怒りの表現であり大切なものです。
 また、自己主張し、競争していくことも攻撃性の発露のひとつです。たとえ理性で抑えられていても本能的な衝動エネルギーは湧いてきます。そのエネルギーを発散する方法として、スポーツや勉強、芸術といった、より社会的で文化的に認められる形に変えて表現していくことがあります。私たちには、自分らしさを作り上げていくことや、自分を好きになっていくことを求める思いがあり、そのために他者と自分を比べて競争心が湧いたり、自信をつけたがったりするものです。
 しかし、多くのひとは、誰かに怒りを感じたり憎しみを抱いたりすることや、競争に勝って注目を浴びたいと熱望することを、悪いことや卑しく恥ずべきことのように考えがちです。それは、私たちのこころのなかにある倫理観や価値観が、それらの感情に対して強い罪悪感を生じさせることに由来します。ここには、個人的な成長過程を越えて、日本人のこころの文化として歴史的に育まれた感覚も含まれます。
 こころの健康にとって重要なことは、「わたしは、こういう理由で怒っている」と自覚し、持ちこたえられるかどうかです。怒りや競争心が生じること自体は決して悪いことではありません。確かに特に負の感情を実感することは不快なもので、苦しく、こころが蝕まれるように感じられることもあります。それでも、怒りがエネルギーとなり、私たちをより良い方向性へと導く原動力にもなりうるのです。

怒りの奥にあるものと、怒りの先へ

 アシタカは、サンの怒りに理解を示しつつ、女性や病者という弱い立場の人々を守り、生きるために強くあろうとするエボシの姿も知っていきます。もちろん、エボシには冷徹で容赦ない面もあるのですが、それでもアシタカはそれぞれの思いを知った上で、暴力で傷つけ奪い合うのではなく、森と人間が共存する術はないかと葛藤します。
 サンはサンで、もののけ達が怒りに飲まれて自らを見失い、ついにはイノシシ一族の王である乙事主までタタリ神へと変貌していく様に、このままではすべてが失われていってしまうことに気がつきます。実はそこには、サンが元は生贄として棄てられた人間であり、もののけにもなれない、どこにも本当の居場所がないというこころの空洞も浮かび上がってくるのです。
 こうして、それぞれの言動の奥にあるもの、つまりはこころの空間がたち現れてきます。こころのなかは、たとえ意識されなくても、記憶や経験、感覚、時間の流れといった複雑で多彩な内容が溢れた立体的な世界です。たったひとつの感情がひょこっと生じるのではなく、その感情に関わるたくさんの事柄があり、それらが存在するのがこころの空間です。
 サンの怒りの奥には、棄てられた傷つき、愛するものたちが傷つけられる姿に直面した傷つきなど、実は多くの喪失に関連した哀しみが潜んでいました。アシタカという、サンの怒りの器になり、否定も肯定もせずにしかし共に歩んでくれる存在を得たことで、次第にサンも自分の複雑なこころの動きを改めて感じていくようになります。
 物語の最後にサンは、人間への憎しみ自体が無くなりはしないものの、すべての人間が信じられないのではなく、アシタカへの信頼と愛着が芽生えました。アシタカにより受け止められていた怒りは、サンのこころで抱えられるようになったのです。そして、それはそれ、これはこれ、というような分別が付けられ、自らの怒りの感情で振り回されることはなくなりました。

終わりに

 私たちが日常的に目にする怒りの結果としての言動は、表面的で断片的な出来事の一端でしかありません。それぞれの怒りの背景には、長い物語があり、たくさんの情緒体験が含まれているものです。もしも誰かが怒りを感じているのならば、そこに至るまでの相応の理由や歴史があるのです。それは、自分自身のこころの世界にも言えることです。そのようなこころの世界に思いを巡らせられる想像力を育みたいものです。

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