コロナ禍での見通しのつかない不安が続く中、感染予防策としてとられた様々な日常の変化は必要ではあるものの、子どもたちの心の状態に多様な影響を及ぼすことになった。ここでは私が心理療法を通して関わる小学生の心の動きから、コロナ禍の影響も含めて検討し、「子どもたちの思い」について考えてみたい。個別ケースには特異性があるものの、普遍的要素もあると私は考えているので、二つのケースをここでは取り上げてみたい。

ケースA

 現在高学年のA君は、両親の不和を背景に、盗癖や暴力の問題を主訴として三年前から私が関わっていた。現在は家庭環境も落ち着き、A君自身の主訴も解消されつつあった。両親は元来の性格に加え仕事が多忙で、A君の気持ちを汲んで理解することが難しかった。それで一時期A君は荒れていたが、さすがにこれでは大変だと両親は以前よりも協力し合いA君と向き合おうとした。それに呼応してA君の問題行動は減少したが、自分の本当の気持ちを理解されない怒りと、あきらめの気持ちに私たちは取り組んでいた。この頃、両親が在宅でテレワークとなったのだが、日常的な感情のぶつかり合いが増した。彼はその不満を私に話したが、次第に彼も両親と激しくぶつかり合うようになった。この時期、彼は私に「僕なんて、いなくなってもいいんだ」「僕は必要とされていなんだ」と話した。そして、私にも「僕はここに居ていいの?」と話した。私は「当然だよ、君はここに居ていいんだよ!」と強く伝えたい切ない気持ちにもなっていたが、その言葉が一瞬だけの慰めのように感じ、彼の孤独感の前では何か軽薄な言葉のように感じてならなかった。

ケースB

 学校で孤立しがちな低学年のBちゃんは、母子家庭で一人っ子として育った。母親は情緒不安定で、ある時は母子一体化することで安定し、ある時は別に関心が向きBちゃんへのネグレクト傾向があり、養育態度には一貫性を欠いていた。コロナ禍で母親は職を失い、家に居ることが多くなったが、うつ傾向が増した。Bちゃんにとっては、いつも家に居てくれる母親にはなったが、いつも心がそこにないように経験していた。また、唯一の親友の女の子がいたが、コロナの影響による家庭の事情で疎遠になっていた。彼女は、人形を使い様々なストーリーを展開させる遊びをしていたが、この時期は、コロナ菌を街にまき散らす美しい魔女に急変する女性、何もしない女性、魔女と戦う小さな女の子が登場した。女の子は魔女と戦い、いつもコロナ菌にやられてしまうが、何もしない女性はその場でただ見ているだけで助けてくれなかった。女の子が魔女を追い詰めることもあったが、その後は必ず机から落ちて死んでしまい、何とも言えない無力感が面接室には漂っていた。彼女は、何もしない女性に向かって「あなたはいったい何しているの? どうして助けてくれないの!」と言い放った。その言葉は、私自身にも突き刺ささるように感じられた。

安心感・安全感の揺らぎ

 コロナ禍における「子どもたちの思い」という言葉から私が想起したのは、この二人とのやりとりを通した私の戸惑いであった。子どもの心理療法を実践している臨床家ならば、このビネットで示される心の動きや私との交流が、必ずしもコロナ禍に特有のものではないと気づくだろう。子どもに生じる問題は、彼らの気質と育った家庭環境の影響、家族以外の様々な人々や出来事による影響が絡み合い生じている。今回私があらためて考えることになったのは、個々に背負っている歴史的背景だではなく、現在の社会背景も当然ながら影を落としているということである。
 コロナ禍の影響は潜在的にあった問題を顕在化させる作用があったことがよく言及される。A君の両親の仕事が在宅になり家での情緒的な接触が増しストレスが高まったこと、Bちゃんの母親が職を失いうつ状態になったことや親友と疎遠になったことは、コロナ禍の直接的な影響である。
 次に、それらの影響により浮き彫りになった彼らの「思い」について考えてみたい。A君からは居場所のなさ、自己の存在意義の不確かさ、そして孤独感が浮き彫りになっている。私は、何らかの言葉かけですぐに払拭できる類のものではないことに戸惑った。Bちゃんからは安定した信頼感のある他者の存在感を実感できない複雑な気持ちが浮き彫りになっている。とりわけ助けを求めても何もしてくれないという訴えに私は動揺した。二人に共通しているのは安心感や安全感の基盤のなさであった。
 私たち大人の安心感や安全感というものは案外不確かなもので、何らかのやり方でそれが露呈しないようにバランスをとっている。しかし、コロナ禍において私たちは多かれ少なかれその均衡を保つことが困難になった。家族内では密になり、家族外での人や場所とのつながりは希薄となった。安心感や安全感の脆弱さを、家族と一定の距離を置き、家族外の他者や場所とのつながりで何とかカヴァーしてきた人にとっては心の均衡が崩れる経験になったのではないだろうか(再度立て直した人、逆に安定につながった人もいるだろう)。

眼差しの行方

 「僕はここに居ていいの?」「あなたはいったい何しているの? どうして助けてくれないの!」と私に向けられた言葉は、彼らの実生活と深く関わり、彼らの心の世界における叫びとしてだけではなく、現在の社会における大人に向けられた「子どもたちの思い」の一部を代弁しているように私には聞こえてならない。
 私たち大人は次第にコロナ禍にも順応したように見えるが、見通しが持てず余裕をなくし潜在的・顕在的に不安を抱え、安心感・安全感の基盤は揺らいでいる。私たちは、子どもたちの思い、心の叫びを真に受け取ることが簡単ではない状況にいるのだろう。自分に関心を向け見守り続ける信頼できる大人が傍に居てこそ安心感や安全感を経験でき、自分はここに居ていいんだ、存在していいだ、生きている価値があるんだ、人を信頼し頼ってもいいんだ、と言葉を超えて経験できることを二人の訴えは示唆している。「子どもは社会を映し出す鏡」と言われるが、このコロナ禍において、子どもの思いを受け取る大人の存在意義が改めて問われているのではないだろうか。
 昨今私は、心理療法の場で出会う子どもたちが抱える問題は、私たちが生きている社会の歪の一部であるとより一層強く感じる。とりわけ小学生の時期は、気持ちを言葉にして他者に伝えることが難しい時期である。「子どもたちの思い」、それは私たち大人が、たとえ動揺したとしてもその思いを受け取る意思がなければ、いずれ異なる別のかたちで大人たちに、社会に向けられることになるだろう。いじめ、非行、ひきこもり、自殺、自傷、様々な精神症状や問題行動として。

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