正義って考えたりします? やっぱり「軸」なんですよね、principle。

⃝お茶の水女子大学文学部哲学科

 二一世紀になってから大学・大学院を出た人と違うのは、当時はね、ゼミを平気で休んだ。大学の授業って半分も出なかった。何してたかっていうと、六〇年代はベトナム戦争が凄かったですから。お昼、一〇時くらいに大学に行って、生協で何か買ってブラ〜っとしてて、看板を見ると「今日はなんとか公園に何時集合」とかって出てるんです。私、東京の公園は全部ね、デモの会場で覚えたんですよ。

⃝学士論文「ドイツ浪漫主義の源流と変遷」(一九六八年)

 なぜドイツロマン主義かっていうと、明確に私の中に橋川文三っていう人がいてね。
 戦争中に作家とか哲学者の中でいわゆる日本の国体とか、日本の国についてその源まで遡って賛美した人たちを戦後誰も批判してないっていうので、橋川文三が日本浪曼派を批判的に書いたのが『日本浪曼派批判序説』。その本がすごく面白かった。それをお手本にして、ドイツロマン派に移し替えたのが卒論です。
 その時、最も念頭にあったのが三島由紀夫です。まだ彼があの事件(*)を起こす前ですから。日本浪曼派、つまり三島的なものがどれだけ危険なことなのか、っていうのを明らかにするために書いたっていう。非常にイデオロギッシュな卒論でした。
 ドイツ哲学のフリードリヒ・シュレーゲルとか、ノヴァーリスとか、もうちょっといけばワーグナー、あのあたりの本を読んで、一つよくわかったことがあって。〝自我を純粋に追求すると、最後はファシズムになる〟っていうことでしたね。その時にはうまく言葉にできなかったんだけど、やっぱり自我ってものに対する忌避感が生まれたと思うんです。
 その後一旦岐阜に帰って、今度はそれこそなぜかカウンセラーになろうと思って専攻変えたわけですよね。それで大学院に受かって、数年ぶりにお茶大の入口の銀杏並木を歩いてる時に「三島由紀夫がね、市ヶ谷の自衛隊に乗り込んで行って、割腹自殺したらしい」って通りすがりに聞いてね。今でもその瞬間の銀杏並木が思い浮かぶくらい。

●依存症臨床、DV臨床

 依存症の本体っていうのは、〝自分で自分をどうにかしなければいけない〟っていう強迫なんです。自分で自分を勉強するようにしなければいけないとか。簡単に言ってしまえばセルフコントロールですよね。セルフコントロールが一番効く人が依存症になる。効かないように見えるでしょ? でも違うんですよね。あの人たちは、セルフコントロールをとことんやろうとしてるんですよ。適当なところでやめない。だから依存症になっていく。だからある種のパラドクスなんです。
 そのことを考えると、私が二一、二歳の時に純粋に〝自我〟を追及することを否定していたことと、五〇歳を過ぎてから依存症の本を書くのと、繋がってる。
 私はどうしてもね、「こころ」とか内的世界を対象にすることからは距離を取り続けると思います。私たちは暴力が発生する「場」に関わらなければならない。それはこころが生まれる以前・未満です。殴られたり、性虐待を受けている人って、何されているか分からないんですよ。何てこの経験を表現してよいのか分からない。だから定義しないと、加害者が浮かび上がってこないし、加害者臨床もありえないし、責任の問題もありえない。そういう「こころが生まれる場を作ること」も心理臨床じゃないかなって。

⃝若い世代に向けて

 やっぱりウクライナの問題ね。コロナがあるし、後の歴史から見たら二〇二〇年から二〇二二年って最悪の時代だと思うんです。でもこんな時でもみんな普通に生きてるじゃないですか。おそらく第二次世界大戦中もそうだったと思う。だから私は……本当に陳腐な言葉ですよ、歴史を知らなければダメだと思う。
 私も松村(康平)先生から第二次世界大戦で心理学者がどういう役割を果たしたかっていうのを聞かされたんですよ。なんで東大の心理学科の学生が満州に行ったのか。それは「敵を読むためである、心理学の知識は必要とされたんです」って。治療するとか言ってるけど、やっぱり心理学ってなんのためにあるのかっていう根底的な質問を、歴史から見てね、今の時代に問い直していいんじゃないかって思う。
*一九七〇年一一月二五日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫が自決した、いわゆる三島事件。
信田さよ子(のぶた・さよこ)
お茶の水女子大学文学部哲学科卒業。お茶の水女子大学大学院修了(児童学専攻)。原宿カウンセリングセンター顧問、NPO法人PRP研究会代表理事。先駆的にアディクション臨床に取り組み、被害・加害の視点を含め社会に積極的に発信し、この臨床領域を牽引してきた。二〇二二年度日本心理臨床学会学会賞受賞。

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