この世にいないお別れ・この世にいるけどいないお別れ

 「昨日の夜まで元気だったのに」と、突然の脳梗塞で親を失った子は淡々と言い、「自分のせいでこうなった気がする・・・何でなにもしてあげられなかったんだろう」と、親の急な自殺を経験した子は自分を責めるように言いました。長らく居所が不明なままだった親が既に亡くなっていたことを知らされた子は、どう理解していいか分からず当惑し、「もっと早く知りたかった」と呟きました。様々な理由によって家庭から分離した子の暮らす児童福祉施設での勤務経験やSC活動等を含めて、私は色々な形で親とのお別れを経験した子ども達に出会います。そこでは親が「この世にいない」お別れによる"さようならを伝えられない無念"や"拭えない葛藤・晴れない疑問"を聴くことがありました。その話題には触れず、ただ黙って座っている子、感じている気持ちを言葉ではなく絵などで表現する子、なかには無理にテンションをあげて不自然な作り笑いをする子もいました。唐突な親との離別体験の傷つきは、ショックだという感情を言葉にできなくしたり、離別体験そのものを無かったことにしてしまったり、自傷他害といった不適切な行動化や不登校・引きこもりなどを生じさせたりと、あらゆるパターンでその影響を示します。
 親はいるけれども一緒に住み暮らすことができない、という事情を抱える子も多く存在します。それは親が「この世にいるけどいない」という、存在はしているけれども会うことのできない不確かなお別れ、いわば「曖昧な喪失(Boss, P., 2010)」です。例えば親が離婚した、行方不明になったが生存確認はできている、逮捕・勾留された/服役した、などが挙げられます。あるいは親が子を虐待するような、不適切な養育態度を示すリスクが高い場合、子の身柄保護のためいったんお別れをしてもらうこともあります。このように、"さようならではないさようなら"という曖昧なお別れは、子のこころに理不尽さや不全感を生みだし、自分の存在価値を不当に低めてしまうリスクがあります。

日常に起きるお別れと離別を体験したときに大切なこと

 それぞれ親とお別れした事情は異なりますが、共通して言えるのはいずれも物理的に切り離されることで、悲しい・寂しいという感情が湧きあがったり、自暴自棄になったり周囲へ不信感を抱きがちになることです。一方で異なるのは、前者は混乱しながらもいずれ明確なお別れとしてその感情を抱き、後者は混乱し続けながらその感情を抱く点です。さらに会えなくなるわけではない、日常に起きるお別れも存在します。例えば親の認知や身体機能が著しく衰えていくことで親自身が自分のことで手一杯になる場合や、以前なら普通に接してくれた親が、子に意識を向けなくなるといったように、交流のありようが変わってしまう、「目の前にいるのにいない」状態です。
 なんらかの形で親とお別れをしたとき、悲しみや不安、怒りや戸惑いが突如として、あるいはじわじわと生じることがあるかもしれません。自分だけの力で気持ちを落ち着かせることもあれば、大丈夫なふりをすることもあるかもしれません。そんなとき、自分を責める必要は全くありませんし、もし話してみてもよいと思ったら信頼できる誰かに率直にその感覚を伝えてみてください。お別れがもたらしたショックを表現することは、こころに本来あるはずの回復力(resilience)を立ち上げることに繫がると私は考えます。そしてお別れを体験した子に関わる周囲の大人には、どんな些細なサインも見逃さない意識が必要です。

参考文献
Boss, P. (2010). The Trauma and Complicated Grief of Ambiguous Loss.
Pastoral Psychology vol 59. 137-145.

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