特集01: 社会的養護の心理臨床の魅力 「わからなさ」のそばに居続ける——児童養護施設の心理職
ごっこ遊びの中で起きていること
「タイホ!タイホ~!動くな~!」。目の前で6歳の女の子が、おもちゃの手錠をガチャリと私の手首にかけ、得意げな表情で仁王立ちしています。セラピストである私は、窮屈な姿勢で椅子に座らされ、懐中電灯で顔面を照らされて取り調べを受ける容疑者です。「悪いことしたっけ?」と考えながら、わりと真剣に容疑者としてそこに居続けます。これが、児童養護施設における子どものセラピーの一場面です。
心理士と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、「心の専門家として、悩みを聞いて解決する人」というイメージや、静かな部屋でゆったりと対話をする姿かもしれません。けれど、実際のセラピーの場では、(もちろん静かにゆったりと対話することもありますが)もっと不思議で、思わず笑ってしまうようなやりとりがたくさん起こります。そして、その一つひとつに、子どものこころの動きが詰まっています。
一見するとただのごっこ遊びですが、この何気ない遊びは繰り返され、その子なりの意味があるのだと気づかされることがあります。彼女は、大切な大人との別れに強い不安を抱えていました。来月のセラピーが1回休みになることを知らされ、セラピストが彼女を置いて出て行く母親のイメージと重なったのかも知れません。セラピストを逮捕して物理的に拘束すること。それは彼女にとって、「自分を置いてどこにも行かせない」という切実な願いの表現のように感じられました。
また、別のある男の子は「こんなん幼稚な遊びや!」と凄みながら、哺乳瓶をくわえてピストルを構えてきました。ギャングのように振る舞いながら、一方で赤ん坊のように哺乳瓶を吸うちぐはぐな姿。そんなツッコミどころ満載な彼にも、実は彼なりの理由がありました。彼の母親は精神疾患を患い、彼は乳児期から十分なお世話を受けることができず、常に不安定な母親を気遣いながら育ってきた子どもでした。甘えたり頼ったりする弱々しい自分は受け入れられない。だからこそ「オラオラした強い自分」で武装する必要があったのでしょう。早く大人にならざるを得なかった部分と、まだ十分に満たされていない幼い部分。その両面が、同時にそこに存在していました。そのちぐはぐさこそが、彼なりの生き抜く術だったのだろうと思います。
わからなさとともに居る
このようにして、セラピー室という小さな箱の中には、子どもたちの激しい生育歴の断片や言葉にならない感情が、これでもかと持ち込まれます。子どもたちとのやりとりの中では、「正しい意味」も「決まった技法」もありません。大切なのは、子どもたちが見せる行動や言葉の意味を性急に整理したり、結論づけたりするのではなく、一緒に眺め、味わいながら、少しずつ理解に近づいていくプロセスです。
とはいえ、それは時にもどかしく、苦しい作業でもあります。「今やっていることは何の意味があるのだろう?」と考え続けながらも、はっきりとした答えにはたどり着けないことも少なくありません。それでも、わからなさを抱えたまま、そこに居続けること自体が、関係を支える土台になっていきます。自分のことをわかろうとし続けてくれる大人がいるという感覚は、子どもにとって想像以上に大きな意味をもっているように思います。
暮らしのそばにある専門性
こうしたセラピーの時間は、特別なもののように見えるかも知れませんが、子どもたちの生活全体から切り離されているわけではありません。施設で暮らす子どもたちにとって、長い時間を共にするのは生活の中で関わるケアワーカーです。食べて、学び、遊び、眠る。そしてまた、明日を迎える。暴力のない、安全で安心できる生活の繰り返しの中にこそ、傷つきからの回復を支える基盤があります。心理士はその外側にいるのではなく、日常と地続きのところで関わる存在です。生活支援に直接入る立場ではありませんが、一歩引いた場所から子どもの内面を捉え、生活の文脈につなぎ直していく。子どもを共に理解し、ケアワーカーを支えることもまた、心理士の大切な役割です。そうしてチームで子どもを育てていきます。
またこの現場には、生活に近いところで関わるからこその難しさと面白さがあります。子どもたちは日々の生活の延長線上でセラピーにやってきて、また生活へと戻っていきます。その中で出会う私たちも、どこか「役割」だけではいられない存在になります。たとえば子どもたちは、時にこちらがドキっとするような質問を投げかけてきます。「なんで結婚しようと思ったん?」「施設じゃなくて、普通の家庭で育ったん?」。心理士として考えれば、個人的なことにはあまり踏み込まず、答えないという選択もありますが、その子がなぜそう尋ねるのか考えると、単に「答えない」で終わらせるだけでは届かない場面もあります。その子にとって「大人とは何か」「家族とは何か」「セラピストは自分とは違う世界にいる人なのか」。そうした問いは、とても根っこのところにあるものとして、その子の中に存在しているのだと思います。だからこそ、時には一人の人間として自分の言葉で応えていくことが、関係をひらくきっかけになることもあります。もちろん、どこまで応じるのかに正解があるわけではなく、その都度迷いながら、関係のあり方を探っていきます。こうした中にも、「心の専門家」と「一人の自分」との間を行き来する難しさと面白さが詰まっているように思います。
派手さやキラキラさはなく、目に見える変化もすぐには現れません。ごく当たり前の生活の積み重ねと、ちぐはぐで不思議なやりとりの連続の中に、子どもたちの育ちや回復にとって大切なものが含まれています。心理士は、子どもを変える存在というよりも、その子の歩みに寄り添う伴走者のような存在です。その過程には、関わり続けることも、手放すことも含まれます。うまくいったのかどうか、はっきりとわからないまま終わってしまう関係もあります。それでも、何年か後に大人になった彼らが施設を訪れ、家庭を持ち元気にやっている姿を見せてくれたり、「あの時、おれのしょうもない遊びにずっと付き合ってくれてありがとうな」と言ってくれたりしたときには、「少しはつながれていたのかもしれない」「ほんの一部でも、その子の人生に関われていた」と実感することができます。
支えるなかで、支えられている
支援する側、される側という枠を超えて、私たちもまた子どもたちに影響され、多くのことを学ばせてもらっているのだと思います。手が届かなくて打ちひしがれそうになったり、傷ついたりすることもありますが、それは彼らがくぐり抜けてきたものに、ほんの少し触れているということかも知れません。子どもたちは、今日もたくましく、しなやかに生きています。
*本稿のエピソードは、実際の臨床経験をもとに再構成した架空事例であり、個人が特定されないよう配慮して執筆しています。