特集02: 無意識のいま 「病」と「無意識」——身体疾患の治療現場で起きていること
ICU病棟でのこと
「しんどすぎるもうねかせて。」
この言葉はICU病棟の患者さんが震える指を文字盤の上でゆっくりと滑らせ一文字ずつ紡いでくださったものです。
高度医療、急性期医療を担う大学病院が私の職場です。そこで心理臨床に携わる者として、身体疾患の治療を受ける患者さんの無意識に考えを巡らせたときにまず浮かんできたのは「意識不明の重体」「医療用麻薬による鎮静」でした。
さきほどの患者さんは気管を切開して人工呼吸器を装着しているので声が出せないのです。自分で寝返りを打てずあおむけで寝ている視線の先はかわり映えのない天井です。体から出たチューブはベッド周りにいくつも並ぶ医療機器とつながっています。なんらかの異変を知らせる機器のアラームさえ、日常の音のひとつへと溶けてしまうような医療現場です。その後、医療用麻薬を投与してもらい、鎮静状態になりました。この間も治療は続き数週間経った頃に、麻薬の量を減らしてふたたび文字盤でやりとりができるようになりました。紡いでくれたのは「ひづけなんにちねてた」という言葉でした。
今をsurviveするための無意識
心理臨床の専門家がそれぞれの現場で出会う無意識というのは、相当多岐に渡るのではないでしょうか。それこそ、無意識という概念を想定すること自体に意味があるのかという議論も、どんな無意識のことを指すのかによって議論の向かう先がずいぶん違ってくるかもしれません。
私の職場では意識が無いという意味での「無」意識に出会うことがあります。身体レベルで「無」意識でいることによって耐え難い苦痛からその人を守っているような場面です。
一方で、行動や感情に影響を与えながらも意識にはのぼらないという意味での「無意識」に出会うこともあります。ひとつの例としては難治性の慢性疼痛の患者さんのそれです。持続する強い痛みが原因で社会生活を思うように送れないと患者さんは自覚しているけれど、“以前と同じような社会生活”に戻れない理由を痛みとは別に医療者側が仮定する場合のことです。本人には自覚がないので「無意識」だというわけです。
こうした見立てというのは“なんとなく”ではなく、心理臨床にかかる理論に基づいて行うわけで、疾病利得という話だったり、不合理な認知にまつわる話だったり、ユング派が言う布置constellationを読むという話だったりするかもしれません。それらはいずれにしても専門家による現状への意味づけであり、おおむね患者さんの考え方や生き方の変容と関連する筋書きになっていることが多いと思います。
しかし、自己変容と関連づけた「無意識」に専門家としてどの程度コミットするかは、その患者さんとどのくらい安定して面談を重ねられるかということとセットで考える必要があります。高度医療、急性期医療の現場では、「無意識」を想定しながらも、あえてそこには接近しないことが多い実感があります。「無意識」に向き合わないことで維持できている現実があって、そのなかで必要な身体的治療を受ける日々を送っているのであれば、その日々が一定期間続くように支援するというわけです。今の局面をsurviveするために無意識でいることの大切さ。そんなことをよく考える現場です。
医療者の無意識
医師や看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、栄養士、薬剤師、臨床工学技士など、とにかくさまざまな職種の医療者と一緒に仕事をします。そのぶん、医療者側の無意識にもよく出会います。
医療の現場では、今起きた出来事を“できるだけ早く解消・軽減すべき問題”として意味づけします。たとえば、入院中にも予期が難しい症状やさまざまな合併症に出会います。熱が出たので調べてみたら真菌のしわざだとわかり抗真菌薬を投与する、下血があったので内視鏡で見てみると腸に穿孔があるとわかり手術の手配をする、夕方になって急に患者さんの呂律がまわらなくなったので脳を調べたら脳梗塞が見つかりすぐに治療方針を検討するなど、医療として必要な対応をその都度行っていきます。
目の前の問題の解消・軽減にかかわる知識と経験を積み重ねている医療の専門家だからこそ、おのずとその思考は問題解決志向になります。病や症状に対して内的な自己変容と関連させたような意味づけはしませんし、その余裕もありません。そのタイミングではないとも言えます。
もちろん、医療者は目の前のことだけではなく病歴にも意識を向けます。人生のどの時期に、どのような症状を認め、どこの病院でどのような治療を受けたのかという“病にまつわる客観的情報”のことです。ただ、この病歴という時間的に幅のあるもののなかで患者さんが何を思い、どう暮らしてきたかという“病にまつわる主観的物語”には意識が向けられないこともあります。意識が向けられないという意味での医療者の無意識です。だからこそ、心理臨床の専門家(以下、心理職)としては、病をどう生きてきたかに考えを巡らせることに時間をかけます。ときには小さい頃からの暮らしに注目することもあります。そこで見立てた“病にまつわる主観的物語”を必要なタイミングで他の医療者と共有するようにしています。
心理職の無意識
体に不調がある患者さんは体のことに意識が向きやすくなります。医療者も患者さんの体に意識を向けています。そういう現場にいる心理職は余計に「体だけじゃなくて心にも意識を向けよう」という思いを強くして、結果的に心のことに意識が偏ってしまうことがあるかもしません。ここに心理職の「無意識」が見え隠れします。一見心の問題に見える症状が心理的な反応ではなく、薬の副作用や体内の電解質異常が原因のこともあります。
ある小学生とお母さんの話です。この子は手術を受けて小児科病棟に入院していました。母親が泊まり込みで付き添いをしてくれていたとき、「お母さんは死なないよね?」「夜が怖い」と話してくれたことがありました。手術の体験や病院での夜の闇など、子どもにとっていつもより身近に“死”を連想させる状況は確かにありました。ただ、お母さんが睡眠時無呼吸症候群だとしたらどうでしょうか。眠っているお母さんの“呼吸が止まる”という症状に反応した言葉だったとすれば、その意味合いもいくらか変わってきます。
さいごに、ここに登場した「患者・患児」は実際の状況をいくつか組み合わせたり、事実に変更を加えた架空の人たちです。しかし、現場で絡み合ういろいろな無意識を紹介するうえで、実際に近いリアリティを添えてくださいました。どんな無意識であったとしても、病を抱えながら今を生きている人がsurviveできるような、未来につながるような“意識と無意識の関係”をいつも問い続けたいと考えています。