特集02: 無意識のいま 子どもの臨床にあらわれる無意識
無意識ってなに?
無意識について考えるとき、私は、普段とは少し違う行動を自分が取っていたことに後から気づき、「なぜ、自分はあんな行動をとったのだろう」と感じる体験を連想します。
ある日、山々に囲まれた田舎の帰省先から都会の自宅へ戻ろうとしていた私は、駅で線路トラブルによる運転見合わせのアナウンスを聞きました。その路線は地元の主要な移動手段だったため、私は一瞬混乱しました。しばらくすると、反対方向の電車だけは動くと知らされます。私は長年その地元に住んでいましたが、反対方向へ向かう電車に乗ったことはほとんどありませんでした。普段の私は馴染みのない選択を避け、運転再開を待つタイプです。しかしその時の私は、反対方向へ進む電車に飛び乗っていました。
電車が進むにつれ、窓の外には、自分が知っているつもりだった地元の、見たことのない風景や未開拓の山々が広がっていました。その時私は、知っていると思っていた地元が実はほんの一部だったことに気付かされました。
私にとって無意識とは、このように、自分の意識や理解を超えてあらわれ、自分の想定を揺さぶるものとして経験されます。それは、未知のものが外からやってくるだけではなく、自分自身の中にも、十分には理解していない部分があることに気付かされる体験でもあります。本稿では、無意識を「自分の意識や理解の外側にあるもの」と捉え、私が子どもの臨床の中でどのように無意識と出会い、関わっているのかを述べていきます。
映画『怪物』
子どもの臨床における無意識を考える時、私は是枝裕和監督の映画『怪物』を連想します。この作品は、ひとつの出来事を、母親、教師、そして子どもたちという複数の視座から描く三部構成になっています。物語は、母親が、息子のいつもとは異なる様子に違和感を抱くところから始まります。息子から「担任教師に暴言や体罰を受けた」と聞いた母親は学校へ抗議しますが、教師側はそれを否定し、不誠実な対応を繰り返します。しかし、物語が進み、教師、子どもの視座から同じ出来事が描き直されていくにつれ、それまでの理解は少しずつ揺らぎ始めます。そして最後には、そもそも私たちが「理解した」と思っていた出来事そのものが、十分には捉えきれていなかったことに気付かされます。
私たちは普段、自分が見ている世界を「世界そのもの」であるかのように感じて生きています。だからこそ、その外側にまだ見えていないものが広がっていると気づくことは容易ではありません。そして実際に、その外側に気付いた時、私たちは、自分の理解が揺さぶられることに動揺したり、圧倒されたりします。しかし同時にそれは、それまで知らなかった世界や、新しい理解が広がり始める「兆し」でもあると言えます。
理解と揺らぎ
次に、こうした「理解の外側にあるもの」が、臨床場面でどのようにあらわれるのかを考えてみます。子どもが「急に学校へ行けなくなった」「人の視線を極端に気にするようになった」「理由なく確認行動が増えた」など、それまでの生活や理解の枠組みに収まりきらない揺らぎを契機に、子どもや保護者が相談機関へつながることが多くあります。
その中で、私たち臨床心理士は、子どもや家族とやりとりを重ねながら、その子どもの暫定的な理解である「見立て」を立てていきます。それは、揺らぎによって生じる不安や混乱に、人々が呑み込まれてしまわぬよう支える作業でもあります。
しかし一方で、見立てを「完全な答え」として固定してしまうと、まだ見えていないものや、十分には理解されていないものまで閉じてしまうことになります。だからこそ私たちは、見立てに収まりきらない「矛盾」や「問い」を、すぐに閉じずに抱え続けようとします。
もっとも、このように「分からなさ」を心に保持することは、決して容易なことではありません。それは私たち専門家も例外ではないのです。なぜなら、私たちは、専門家として「よりよく理解したい」という欲望を抱えているからです。
それでもなお、分からなさに留まりながら関わり続けていると、それまで点のようにばらばらだった考えや感覚が、少しずつ輪郭を持ち始めるように感じられることがあります。
あらわれるもの
映画『怪物』では、視座が増え揺らぐ中で、今まで言葉になっていなかったものが次第に声を帯びたり、登場人物たちの新たな面が浮かび上がったりします。また、子どもたちが駆け出していくラストシーンも非常に印象的です。しかし、この作品は、「答え」や「真実」を提示しているわけではありません。駆け出した子どもたちがどこへ向かうのか、何を感じているのかは完全には分からないままです。それでも、今まで滞っていたものが再び動き出しことは、確かに感じ取ることができます。そして、それに呼応するように、観客の私たちの心の中にも、問いや連想が浮かび出します。
臨床場面でも同様に、分からなさに留まりながら関わり続けていると、それまでは見えていなかった子どもの主観的な体験が、遊びや言葉を通してビビッドに立ちあらわれてくることがあります。また、私自身の体験と子どもの体験とが思いがけずつながる瞬間や、今まで想定していなかった誰かのある側面が、ふと顔をのぞかせたりすることもあります。それは、喜びや生き生きとしたやりとりとして経験されることもあれば、一方で、見たくなかった感情や衝突、一見すると悪化のように見える問題として生じてくることもあります。しかし、その時に立ち上がってきたものが、何を示しているかは、すぐには分かりません。また、一度見えてきたものが、しばらくすると再び見えなくなってしまったり、別の形として立ちあらわれてきたりすることもあります。それでも、その動きや揺らぎが、また別の感情や連想を呼び起こしながら、新たな変化へとつながっていくのだと私は考えています。
不安と好奇心
私が冒頭で述べた電車のエピソードは、今振り返ると、この「無意識」とは何なのかと考えていた時に起きた出来事でした。もちろん、この出来事とその時の私の選択をどう理解するかには、さまざまな見方があると思います。しかし、あの時の私は、運転見合わせによって予定通りに進まなくなったことへの苛立ちや不安を感じながらも、その一方で、「ここから何が生じていくのだろう」という、予想外の展開への好奇心のようなものも抱いていました。私たちは、ときに思いがけない方向へ進んだ先で、まだ知らなかった風景や、自分自身に出会うことがあります。皆さんも、自分の中にある、まだ見えていない自分や世界に、少し好奇心を向けてみてはいかがでしょうか。