なぜ呼吸法が役立つのか

 犯罪被害や事故、虐待などを経験した後、体は「もう安全だ」という情報をすぐには受け取れないことがあります。心拍が速くなる、眠れない、物音にびっくりするといった反応は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)における「過覚醒」症状です。これは本人の意志の弱さではなく、脳と自律神経の警報装置が働き続けている状態です。
 呼吸は、無意識にも意識的にも調整できる機能です。トラウマ的な体験をした当事者には「体の側から安全のサインを送る練習です」と説明すると伝わりやすいでしょう。吸う息は覚醒を高め、吐く息は落ち着きを助ける方向に働きます。つまり、大きく吸うことよりも「吐く息を少し長くする」ことが目標です。呼吸法はPTSDからの回復に直接役立つものではありませんが、トラウマ的な体験をした人が自分でコントロールできる感覚を持つことは意義のあることです。

始める前に伝えること——「安全・選択・現在」

 呼吸法を導入するとき、支援者は次の3つを必ず伝えます。
①安全:「嫌になったらいつでも目を開けて大丈夫です」「途中でやめてもかまいません」
②選択:目を閉じることや腹部に手を当てることが不快な人には、無理に勧めません。
③現在:足の裏が床に触れている感覚、部屋の色や音、今日の日付などを確認し「今ここにいる」感覚を整えてから始めます。

基本的な手順

①椅子に腰かけ、両足を床に置く
②肩を上げず、息がお腹のほうへ入る感覚を観察する
③鼻から楽に吸い、吐く息を長くする(例:1から3にかけて吸い、4で一時停止し、5から10にかけて口から細く長く吐く)
④数字はあくまで目安。苦しければすぐに短くする
⑤吐くたびに「今」「安全」「戻る」など、本人に合う短い言葉を心の中で添えてもよい
 最初は1分程度から始め、慣れてきたら3分程度に延ばします。終わるときは周囲を見回し、手足を動かして「今ここ」に戻ります。
 呼吸法は危機のときだけでなく、比較的落ち着いているときに1日2〜3回、短く練習することが効果的です。宿題にする場合は、練習する場所・時間・中止するサインを本人と一緒に決め、できなかった日を「失敗」と扱わないことが大切です。

期待できる効果と注意点

 心拍や筋肉の緊張が和らぐ、寝る前に落ち着きやすくなる、感情が急に高まる場面で自分を立て直しやすくなるといった効果が期待できます。ただし、呼吸法を「トラウマを消す技術」として伝えないことが重要です。PTSDの治療にはトラウマ焦点化心理療法などの専門的なアプローチが必要であり、呼吸法はそれを支える「安定化スキル」の一つです。
 めまい、しびれ、離人感、恐怖の悪化があれば、すぐに中止して目を開け、普通の呼吸に戻します。
 支援者の役割は「上手に呼吸させること」ではありません。当事者が自分のペースを取り戻していく過程を、そばで丁寧に支えることです。呼吸法は、「自分の体に、もう一度味方がいる」と感じるための、小さく確かな練習です。被害体験により加害者に心理的に支配された感覚を持っている人が、自分でコントロールできる感覚を取り戻すことは意味のあることです。また、支援者のセルフケアとしても有用です。支援を終え、文字通り息を整え、自分の支援を振り返り、次の面接に気持ちを切り替えます。

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